千七百四十五(歌) 図書館から借りた三冊の本(左千夫悪口の原因を見つける)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
五月十五日(日)
図書館から、潮みどりの歌が載る「編年体大正文学全集 第十一巻大正十一年」といっしょに、二冊借りた。一冊は石井正己「図説 百人一首」だ。百人一首は、誰もが小さいときから親んで来たから、内容が分かったやうな分からないやうな、生焼けの状態だ。それを完全に焼けた状態にするためだった。読んでみて、疑似恋愛の歌が異常に多い。貴族は優雅で暇だから、仮想恋愛の歌を作っては楽しんだのだらう。明治期に、万葉へ帰る運動が起きたのは当然だった。生活に密着した歌を作る運動が起きたのも当然だった。

もう一冊は、子規の弟子たちの内紛を描いた小説もどきの本だ。小説もどきと表現したのは、この本の作者は最初、純文学を目指したものの、大衆小説で売り出す。捕物帳や用心棒物ならそれでよいが、子規の弟子たちの内紛を娯楽風に描いてはいけない。
特に左千夫を狙ひ撃ちしてひどく描き、昭和六十年以降左千夫の評価が悪くなったのは、この小説もどきが原因ではないだらうか。
本の最終頁にある参考資料に、斎藤茂吉の書いた伊藤左千夫の本が何冊もある。茂吉系の人たちの本も多い。手紙などを載せたものの、偏向した本を引用しては、偏向したものしか出来上がらない。
良寛と八一みどりは歌の感多く合ふのに 子規左千夫わずかに合ふが 近年は左千夫を悪く云ふ人がゐるので訳を調べたら 小説もどき悪書に出会ふ

(反歌) 左千夫とは歌の調べが合ふ比率五厘のみだが応援決意
良寛記念館で頂いた小冊子に、水上勉が良寛の悪口を書く理由が書いてあった。新潟大学名誉教授で全国良寛会の方の執筆で、なるほどと納得して読んだ。大衆小説を書く人は、良寛や左千夫とは異質なのだらう。
良寛と水上勉では道徳性が正反対だから、敵対するのもよく判る。尤も水上勉は、本人ではなく兄弟子の不道徳かも知れないが。
左千夫と、小説もどきの男は何が違ふのだらうか。左千夫は愛人がゐたが、茂吉にもゐた。だからこの男が、左千夫にだけ敵対する理由は道徳ではない。左千夫は万葉に帰ることに熱心だった。子規は、万葉に帰ることと写生の、二本柱だった。左千夫以後の人たちは、写生のみ受け継いだ。小説もどきの男は、万葉とは正反対なので左千夫に反対した。これが理由ではないだらうか。
古今など長い月日の古い派に 対抗のため万葉と写生を掲げ新しき歌を目指した人たちが 古きが消えた後までも 論争続け分裂続く

(反歌) 分裂で左千夫を悪く云ふ主張四十年前辺りに起きる(終)

追記五月十七日(火)
紀貫之の歌に「人はいさ心も知らず古里は(以下略)」とあることについて、古里とは昔の都で今は荒れた所だと云ふ。これが正解である。偏向新聞がさかんに古里を故郷の意味で押し付けるが、誤りだ。
古い里昔の都荒れた場所生まれ育った土地と異なる

平兼盛の「忍ぶれど色に出でにけり我が恋は(以下略)」と壬生忠見の「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり(以下略)」は内裏歌合で、前者が勝ったが勝負は微妙だった。忠見は食事が喉を通らなくなり、それが原因で亡くなった。恋の歌が仮想恋愛であり、歌が名誉欲の場と堕したことを物語る。
本編の後の第二部に、正岡子規を取り上げた章があり
『百人一首』を「悪歌の巣窟」とまで言って批判する。「初の七八首はおしならして可」と『万葉集』や万葉歌人の評価を指している。7の歌は安倍仲麻呂、8の歌は喜撰法師で、わずかに平安時代に入り込む。

ここは私もまったく同感。子規と私は、歌感がこの点に関して同じだった。

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