千七百二十九(歌) 左千夫に肩入れを始めた理由
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
四月二十八日(木)
ここ数ヶ月、私は左千夫に肩入れする傾向にある。それは、(一)「子規、左千夫、赤彦」と続く流れを、(二)「子規、茂吉」と云ふ流れに変へようとする言論に、幾つも出会った為であった。
赤彦と茂吉は仲が良かったから、(一)と(二)の中間が正しいのだらう。「子規、左千夫、赤彦と茂吉」である。
或いは茂吉に、左千夫没後間もないころの形だけは左千夫を尊敬し続けた時代と、かなり経過した時代の二つがある。それに従ふと「子規、左千夫、赤彦と左千夫の死後間もないころの茂吉」となる。
左千夫の死後ある程度経過してから、茂吉が左千夫から独立したやうに見えるのは、茂吉が原因か、それとも茂吉の死後に後世の人たちがやったことなのか。私は、後世の人たちがやったと思ふ。

四月二十九日(金)
時代の変化も大きい。戦前に成人した人たちが多かった昭和六十(1985)年辺りまで、左千夫は世間から歌人、小説家として高く評価されてきた。「野菊の墓」は三回映画化されたことを前に指摘したが、三回目は昭和五十六(1981)年だった。それまで十数年ごとに映画化されてきたから、四回目は平成七(1995)年辺りのはずだが、もはや映画化されなかった。
それより気になったのは、左千夫の「野菊の墓」を文学的に未熟だなどと批判する書籍があったことだ。小説は長いから、探せば駄目な部分もある。例へば夏目漱石の小説にも、なぜこんなつまらない筋書きなのか、と云ふ部分もある。おそらく新聞の連載で、締め切りに追はれたのだらう。
「野菊の墓」を夏目漱石が
名品です。自然で淡白で可哀想で美しくて野趣があって結構です。あんな小説なら何百篇よんでもよろしい

と絶賛した話は有名だ。
漱石が当時絶賛名作を我々もまた称賛しよう
三回も映画化された小説を次も映画かテレビドラマで



四月三十日(土)
私が左千夫に肩入れする二つ目の理由は、伊藤左千夫資料館を訪問したときだ。入場料が140円と安いし、「山武市在住の方、幼児・65才以上の方、身体障害者手帳・精神障害者保健福祉手帳・療育手帳をお持ちの方は無料です」とある。山武市に住んでゐて65才以上ではなく、どこに住んでゐても六十五歳以上は無料だ。
私は年齢を証明できるものを持たなかったのできちんと百四十円を払ったが、伊藤左千夫を山武市(当時は成東町)が歴史遺産として後世に伝へるとともに、観光資源として活用する姿勢に、助力しようと決意した。
そんななかで帰宅後に調べると、左千夫を悪く書く書籍が幾つもある。これにはきちんと反撃しなくてはいけない。私は、左千夫だけに肩入れするのではなく、子規、左千夫、赤彦や茂吉の歌を考察してきたが、左千夫だけ悪く書く人が多いので平衡を取ることになった。
明治の世歌と雑誌と小説を多数残して郷の遺産に
(終)

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