千七百三十三(和語の歌) 三度、八一の歌集を読む
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
五月三日(火)
「會津八一全歌集」を、久しぶりに読み始めた。子規、左千夫、赤彦などの歌は、ほとんどが五段階評価で二なのに対し、八一は三または四だ。とは云へ読むうちに、水清ければ魚棲まずの諺を思ひ出した。美しいのだが、印象に残らない。八一をかばふ云ひ方をすると、極めて僅かな例外を除くすべての歌が美しいから、それに慣れて印象に残らない。
久しぶり八一の歌を目で追へば ほとんどすべて美しい 歌清くして心に住まず

八一のどの歌が佳いかは、これまで何回も取り上げたので、今回はいろいろな歌人の特徴を比較することにした。

良寛は、生き方が美しい。それが歌にも現れる。
八一は、調べが美しい。
子規は、貴族趣味に堕落して長い歴史を持つ歌を、万葉時代に復活させた。
左千夫は、その路線を引き継いだ。赤彦は、更にその路線を引き継いだ。
茂吉は、途中から美しさを放棄した。万葉時代の復活ではなく、西洋詩の影響、或いは西洋詩の影響を受けた他の流派からの影響だらう。
良寛と八一で一つ子規左千夫赤彦一つ茂吉で一つ

ここで「會津八一全歌集」の後半に載る「鹿鳴集 後期」に、八一が旧制中学卒業前に
当時の『日本』紙上に発表されし根岸短歌会の歌は、常に予等が興奮の種となれり。就中伊藤左千夫氏の
  元の使者すでに斬られて鎌倉の山の草木も鳴り震ひけむ
といふ一種の如きは、久しき間予は殆ど口癖の如く繰返し繰返し諷誦して止まざりしものなり。
(原文は正仮名遣ひ)
卒業し東京に出て、まもなく病気になり故郷に帰る前に
根岸庵に子規子を訪ひ(中略)俳句和歌につきて、日頃の不審を述べて親しく教を受けしが(中略)ひとりこの人に対座して受けたる強き印象は、今にして昨日の如く鮮かなり。

このとき五枚の色紙短冊を頂いたさうだ。
この日予はまた子規子に向ひて我が郷の良寛禅師を知り玉ふやとただしたるに、否と答へられたり。

帰郷ののち、良寛の歌集を送ったところ
『ホトトギス』紙上の随筆に、禅師につきて記さるるところあり。予は之を見て大に喜びしも、そはただ一瞬時のみなりき。けだし子規子が禅師生涯の佳作として挙げられしは、ただ二首のみなるに、そのうち
  山笹に霰たばしる音はさらさらさらりさらりさらさらとせし心こそよけれ
と云ふ旋頭歌は、実は古き琴唄にて、禅師の作にはあらざりければなり。

私は子規がなぜこんな破調で醜い旋頭歌を選んだのか理解に苦しむ。子規は評論家の域を出ない人だったのか。
この行きちがひは、子規子を経て、次なる左千夫氏にまで及びたるを思へば、両公に対し、ことにまた禅師に対して、予は責任の大半を追ふべきを、今も痛切に感じ居るなり。

二首のうちもう一首を挙げないのは、子規の選歌の悪さを云ひたかったのではないだらうか。根岸派は一人なら勝てるが集団だからできないと、八一が言ったこともあった。そんななかで以上の文章を読むと、左千夫とは良好な関係だったやうに思へる。一方で
大正二年頃かと覚ゆ、伊藤左千夫氏に書を致して画帖に揮毫を請ひしに、氏は
   まづしきにたへつついくるなどおもひはるさむきあさをこにははくなり
の一首を書き贈られたり。後にて気づけば、これ人も知る氏が特色ある最晩年の作風なりしを、当時予はただ格調の変化著しきに眼を瞠りて打ち驚くのみなりき。

明治四十年辺りから佳い歌が無くなると前に書いたが、八一も同じ思ひだったと思ふ。決して最晩年は更に佳くなったとは思はなかっただらう。時は経ち、大正十四年に
『南京餘唱』といふ小冊子を出したるも世上知る人少かるべし。(中略)斎藤茂吉氏が、幾度か推輓の筆を執られたるは感激に堪へざるところなるも、予が心はなほ極地の氷雪の如く、依然として遠く斯檀と隔絶しつつ今日に及べり。
(終)

「良寛と會津八一、和歌論」(六十四)へ 「良寛と會津八一、和歌論」(六十六)へ

メニューへ戻る 歌(二百七十二)へ 歌(二百七十四)へ