千六百七十三(歌、和語の歌) 會津八一の序、例言、後記、付録(三たび、歌を紹介)
辛丑(2021)西暦元日後
閏月十二日(水)(2022.1.12)
「會津八一全歌集」(昭和六十一年発行)は、再び、會津八一を特集で取り上げた。この本には、これまで出版された歌集の序、例言、後記が載るので、幾つか紹介をしたい。まづ「南京新唱 自序」に(原文は正字体)
吾は世に歌あることを知らず、世の人また吾に歌あるを知らず。吾またわが歌の果してよき歌なりや否やを知らず。
世の短歌界とは別の道を歩むことを示す。その理由は
たまたま今の世に功なりと称せらるる人の歌を見ることあるも、功なるがために吾これを好まず。奇なるを以て称せらるるものを見るも、奇なるがために吾これを好まず。新しといはるるもの、強しといはるるもの、吾またこれを好まず。
さて、良寛のリンクに會津八一を追加したことは正解だった。それは
わが郷さきに沙門良寛を出せり。菴を国上の山下に結び、風狂にして世を終ふ。われその遺作を欽賞することここに二十余年、この頃やうやく都門に其名を知る者あるを見る。
そして會津さん自身は
良寛をしてわが歌を地下に聞かしめば、しらず果して何の評を下すべきかを。
良寛は 歌詠みの歌 好まずに 會津八一も 功なりと 奇なるの歌を 好まずに 共に通じる 歌の道かな
閏月十三日(木)
次に「鹿鳴集 例言」に
「南京」を「ナンキン」と読む人少からざるも(中略)古来奈良の別名なれば、昔時『南京遺響』あり、近時佐佐木氏の『南京遺文』あり。みな須く「ナンキヤウ」たるべきなり。
「鹿鳴集 後記」には
明治三十二年四月、中学五年級に進み(中略)記紀万葉の古歌を読むに及び(以下略)。これよりさき我等は郷党の高僧として、また奇人として、良寛禅師の逸話に耳慣れ居たりしが、禅師の歌として聞きしものは(中略)我等が幼時教へこまれし小倉百人一首の類とは、いたく調子の異れるものあるを(中略)これぞ『万葉集』の調子なりけるよと、初めて悟りし(以下略)
なるほど小倉百人一首が、和歌の標準だった。こののち會津八一は正岡子規と会ふ機会があり
我が郷の良寛禅師を知り玉ふやとただしたるに、否と答へられたり。
この時代は、良寛がまだ無名だった。八一が子規に良寛の歌集を贈ると
同年の秋にいたりて、『ホトトギス』紙上の随筆に、禅師につきて記さるるところあり。予は之を見て大に喜びしも、そはただ一瞬時のみなりき。
私は、會津八一が自力で歌風を創ったと思ったので、子規の影響を受けたことは以外だった。
閏月十五日(土)
再び、會津八一を特集に続き、「会津八一全歌集」の残りを紹介したい。まづは「鉢の子」昭和二十年五月。四首のうち一首
むらぎもの こころ かたまけ しぬび こし この やま の へ に うぐひす なく も
意味は「心を傾け偲んで来たこの山の辺に鶯が鳴いている」
東京から疎開し、養女の病状が悪く、沈む心で四首をやっと詠った。そんな感じがする。
このあと「良寛禅師をおもひて」昭和二十一年十二月は再び、會津八一を特集で五首すべて取り上げた。
次に「山歌」昭和二十三年一月。詞書に
昨秋天皇陛下この地に巡幸したまひし時県吏まづ来りて予にもとむるに良寛禅師に関する一席の進講を以てす予すなはちこれを快諾したるも期に及びてにはかに事を以てこれを果すことを得ず甚だこれを憾みとせり今その詠草を筐底に見出でてここに録して記念とす
とある。四首すべてを挙げると
さと の こ と てまり つき つつ あそびたる ほふし が うた を きこえ まつらむ
意味は「里の子と手まりをつきながら遊んだ法師の歌をお聞かせ申し上げます」
二首目は
やまかげ の ほふし が うた も きこし めせ くに みそなはす たび の かたみ に
意味は「山影の法師が歌もお聞きください。国をご覧になる旅の記念に」
三首目は
あしびきの やま の ほふし が ふるうた の ひびき すがし と よみし たまはむ
意味は「山の法師が古歌の響きはすがすがしいと善(よ)みする(おほめになる)であらう」
最後は
ほほゑみて きこし めしぬ と とこよべ に ほほゑむ らし も いにしへ の ひと
意味は「ほほゑんでお聞き召されたと常世の国でほほゑむであらう古の人は」
---------------ここから(歴史の流れの復活を、その四百ニ十)----------------------------
「新年同詠船出応制歌」昭和二十八年二月詞書に
宮中歌会始の儀に際しての召歌
とあり
ふなびと は はや こぎ いでよ ふき あれし よひ の なごり の なほ たかく とも
意味は「船人は早く漕ぎ出さう、吹き荒れた夜の余波(なごり)がまだ高くとも」
昭和三十一年の経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた。その三年前であった。
吹き荒れた 戦の風は 八つ年(とせ)の 前に止まるも 余波(なごり)は残る
八十(やそ)年の 前に戦は 止まるとも 独り立ちせぬ 国どこへ行く
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(歴史の流れの復活を、その四百ニ十一)へ
---------------ここまで(歴史の流れの復活を、その四百ニ十)----------------------------
この歌集の最後は「鐘銘」昭和三十年十一月
わたつみ の そこ ゆく うを の ひれ に さへ ひびけ この かね のり の みため に
意味は「海の底を行く魚のひれにさへ響いてくれこの鐘、法(のり)の御ために」(終)
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