千五百九十(歌) 水上勉、二つの「良寛」
辛丑(2021)
六月十三日(日)
水上勉の推理小説を幾つか読んだことがある。だから水上勉は推理小説作家だとばかり五十年近く思ってきた。その水上勉「良寛」が二つある。これまで読んだ本に書いてあった。一冊目とまったく違ふことを、断りなく二冊目では書いたと、その本は水上勉を非難した。
それで、水上勉は推理小説以外も書いたのだと知った。そして二つの「良寛」を読んだ。最初の「良寛」は、漢詩で始まる。
自従出家後 蹤跡寄雲烟
(以下略)
出家してより 身は雲まかせ
樵夫(きこり)とまじわり 児童(わらべ)とたのしむ
王侯そもなにかせん 神仙ねがわしからず
棲家いずこなりとも 奥山をよしともおもわず
日に日にこころあらたに 生命(いのち)のどかにおわらなむ
良寛の詩一篇を、東郷豊治氏『新修良寛』の名訳から抜書きさせてもらったのものだが、(中略)私などに至り得ない境地だと思う。

ここまでは、誰もが水上さんと同意見であらう。ところが
(漢詩略)
さびしさは あばら屋に身を
老いさらぼえての 詫び住まい
(中略)
ほかに芋なし 野菜なし
考えあぐむも 知恵もなし
君あわれめよ この詩見て

これについて水上さんは
耕さない人には畜米がないのは道理である。(中略)ここにはなまけものの身勝手な歎きはないだろうか。

良寛の托鉢に、人々は喜んで食事を供養した。とは云へ、水上さんがこのやうに批判するのは、権威への挑戦で頼もしい。これが私の第一印象だった。
よく考へると、世の中が定常状態では、供養する人の充足感と釣り合ひが取れる。終戦直後は、その釣り合ひが崩れた。水上さんはそんな時代を生きて、作家として有名になるまで苦労したから、かう云ふ感想が出るのかな、と思った。
読んだのは 推理小説 その後(のち)は 水上勉 五十年 推理作家と 思ひ続けた

(反歌) 社会派の 小説家でも 有名な 水上勉 日本が誇る

六月十六日(水)
もう一つの「良寛」は、水上勉さんが臨済宗の元修行僧だった知識を生かしたもので、有益なことが書いてある。まづ
禅宗寺が小僧を育てるには栄蔵は少し年をとりすぎている。五、六歳が適当だとするのが常識だった。

次に
曹洞宗の僧となるには、出家、得度、入衆、首座、立職、嗣法、住職、瑞世、結制を経て、はじめて一人前の資格を獲得できたわけで、嗣法していなければ、住職にもなれないし、門人を養成しても嗣法することもゆるされない。檀徒の葬儀に、受戒引導する資格もなかった。

良寛の戒名は「大愚良寛首座」だから、一人前の五つ手前、住職になれる二つ手前だ。
以上の話は六十頁辺りで、このあと二七三頁まで飛ぶ。良寛の漢詩を紹介したあと、訳文として
このごろの説教僧の経を講じる姿を見ておると、なんと立板に水をながすようなあんばいだ。(中略)けれども、どうか。仏法の根本は何か、と問うてやると、ぜんぜん応えにつまる僧ばかりだ。

このあとも、漢詩と訳文が五つ続く。しかし水上さんは、良寛を他の僧たちとは違ふ優秀者とは見ない。
どう考えても、初祖の『正法眼蔵』は、はげしすぎすさまじく思えたろう。(中略)師をして任運騰々、良や寛(うたた)しといわしめる落ちこぼれに終始した。それ故杖一本もらって旅立たねばならない仕儀となった。(中略)この挫折感が、父の死を前後に、文芸へ脱進させる。

水上さんに十割賛成だ。
良寛は 首座に留まり 住職に 為れず葬儀で 引導を 渡すことさへ 出来ない僧に

(反歌) 良寛は 天才なので 凡才が 作る資格を 遥かに超える(終)

メニューへ戻る 歌(百三十の三)へ 歌(百三十の五)へ