千五百九十(歌) 五冊のうち北川省一「良寛、法華聖への道」
辛丑(2021)
八月十五日(日)
北川省一「良寛、法華聖への道」には、初めて聞くことが幾つも書いてある。
  1. 良寛は、師匠が亡くなった後に、円通寺の次の住職により追放になり、曹洞宗とは無縁になった。
  2. 円通寺は容檗派だったが、次の住職は反檗派だった。
  3. 良寛が法華経に興味を持ったのは五合庵の時代だった。
北川さんは大病で一旦は三途の川の途中まで行き、しかし戻ることができた。体力と記憶力が減退するため、この書をまとめたとある。だから仕方のないことだが、(1)は根拠を示していない。(3)は筆跡から、五合庵時代と判るかも知れないが。
私がこの書籍に賛成する理由は、佐橋文寿「良寛の宗教--禅者から聖へ」(名著刊行会刊『良寛学入門』所収)の
玄透が晋住すると、(中略)高外全国--大忍国仙系(容檗派)は締め出され、(以下略)
玄透の禅風は、古風な理想主義的純粋禅で黄檗風の一掃を図り、「瑩山清規」を廃止して「永平清規」を強制するなど(中略)良寛には形ばかりの内容のない道元復興と感じられた。



八月十六日(月)
「良寛、法華聖への道」で道元と法華経の関係を読むうちに、私は次のことを考へ始めた。
道元は読経、仏像への給仕などを行なひ、坐禅はそのうちの一つだったのではないか。そして備忘録として正法眼蔵を記し、そのほとんどは坐禅のことについてだった。
玄透のやり方が悪かった理由は、これまでを無視して大昔に戻さうとする原理主義だったとする方法がある。それとは別に、正法眼蔵は備忘録だったのに経典に準ずる文書と思ってしまったとする方法もある。
道元の 個人文書を 公式と 勘違ひした 玄透が 継いだために 良寛は 出て行ったのか 追ひ出されたか

(反歌) 原理主義 悪い思想だ 日本では 永平清規 神仏分離
(反歌) 原理主義 悪い思想だ 世界では プロテスタント 今はリベラル(終)

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