千五百九十(準和語の歌) 今回は十二冊借りた(柳田聖山「良寛 漢詩で読む生涯」)
辛丑(2021)
六月二十日(日)
今回は十二冊借りた。しかもそのうちの一冊は、それ自身が他の十一冊より体積が何倍も大きい。これは書の写真集だ。これを館内で読んだ。注目すべきは「釈良寛」「沙門良寛」と云ふ署名だ。勿論「良寛」が一番多いが、これら二つもたくさん現れる。良寛が僧侶を自覚してゐたことだ。漢詩に一回「非俗非沙門」があっても、それはその詩の文脈である。
この書籍を含めて、合計九冊を館内で二時間掛けて読み、返却した。

六月二十一日(月)
家に持ち帰った三冊のうち、柳田聖山「良寛 漢詩で読む生涯」は最初、採り上げるのを止めようと思った。まづ
良寛はブッダ最後の直弟子といってもよいくらい、すぐれた漢詩作歌なのです。

ブッダと良寛では、二千四百年の時間差と、インドと日本の地理差がある。幾らこのあとで、良寛の漢詩を読むことはブッダの仏典を読むのと同じくらい、宗教上の新しい営みだと言ってみたところで、良寛がブッダ最後の直弟子のはずはない。
もし良寛がブッダ最後の直弟子なら、達磨はどうなるのか。道元や師匠国仙はどうなるのか。しかしこれはまだ序の口だ。
騰々任運、誰を得てか看せしめん。

の訳文として
のほほんのほん、どこにでも気軽に飛んでいくお前を、いったい誰が引きとめたり、看視できるものか。

ずいぶん読者を馬鹿にした表現だ。これがNHK宗教の時間に放送されたガイドブックをまとめたNHKの発行した本とは信じがたい。NHKで放送されると慢心を起こす。NHKに出演した宗教関係者にろくな人間はゐない。
一炷(いっしゅ)というのは、中国でも日本でも、昔は時間を計るのに使った。線香一本分が燃え切るのにかかる長さで、短くて三十分、長いのは四十五分、禅堂で坐禅の長さを計るのは、申すまでもありませんが、遊郭に客があがると、床に立てる約束の約束の時間表示でもありました。

線香の燃える時間を説明するのに、なぜ遊郭の話まで持ち出すのか。柳田聖山は、禅寺に生まれ臨済学院(現花園大学)、大谷大学、京都大学で学び、久松真一に師事、FAS禅に参加し、宗派を離脱。花園大学教授を辞職、京都大学人文科学研究所教授、同所長。
そんな経歴の人が、こんな低級な文章を書いてはいけない。国立大学は、インド哲学から撤退すべきだ。かつてのイギリスではあるまいし、インドを植民地経営のための学問を研究する必要はない。インド哲学は寺の子供だの進学希望者が偏るから、質が低くなる。極め付きは
旧に依って蒼蝿、故紙に鑚(あつ)まる

の訳文が
口をめがけて、青蝿ブンブン、糞の山

これでこの本は、まったく価値がなくなった。そこを我慢して役立つ情報を探すと
円通寺は(中略)徳翁良高が開山ですが、(中略)黄檗宗にも参じて、(中略)若い良寛が身につけた、当時必要な基礎的学習は、そんな徳翁以来の禅学で、具体的には漢文をよみ、漢詩を作る訓練でした。漢文をよみ漢詩を作る訓練は、近代に学校制度が生れるまで、日本人の教養の基本です。

日本と中国が国交を回復したときに、当時の首相田中角栄が中国で漢詩を詠んだ話は有名だ。
良寛が大愚と名乗ったとか、他から大愚と呼ばれたと(中略)、信頼できる他の資料にはみられません。

大愚の名が良寛の印象を大きく曲げるから、後世の作だらう。
京洛の地を出ることが困難であった専門歌人たちは、空想の世界に遊ぶほかありません。(中略)『新古今和歌集』の技巧は、日本和歌史の主流でした。(中略)漢詩の世界でも、事情は同じではなかったのか。写生の詩は嫌われ、先輩たちの使い古した、祖述の句が喜ばれたのです。

そして
良寛をよみ解くためには、(中略)漢詩の一時一句について、出展を当たる必要があります。

私が気を持ち直してこの本を取り上げた理由は、ここにある。漢文と中国仏教の専門家は貴重だ。
中世の曹洞系で公案を用いたことは確かです。

これは良寛ではなく、曹洞宗の情報として貴重だ。

六月二十ニ日(火)
国仙が亡くなった後、良寛はいったいどこにいたのでしょうか。(中略)中国に渡ったのではないか、と考えています。(中略)転々とする事情が判るのです。(中略)国法を犯した良寛は、七年間の足跡を自ら消すのです。

云はれてみれば、渡航説ですべての疑問が解決する。中国では、衣食住に難儀したのだらう。だから帰国後は、それが習慣になった。私はこれが根拠だが、柳田さんは
漢詩作品のどこかに、中国の匂いが残っています。
(中略)
大江茫々として、春已に尽く、
揚花飄々として、衲衣に点ず。
一声の漁笛、杳靄の裡、
無限の愁腸、誰が為にか移る。
(中略)
珍しく故事因縁のない、写景の作です。大江を長江(揚子江)と考えてよいでしょう。

同感である。大江と漁笛に、中国を感じる。
良寛の 詩に描かれた 大きな江(え) 信濃川とは かなり異なる


六月二十三日(水)
この当時の中国は
禅の祖国にふさわしいものがなくて、いかにもうらぶれた現実でした。伽藍ばかり大きくて、仏法が生きていません。(中略)治安もよくなくて(中略)至るところに、革命軍の気配がみえます。

そんななかで
良寛の作品のうち、最も理解に苦しむのが、「僧伽(そうぎゃ)」という作品と「唱導詞」です。(中略)良寛は他に向かって法を説き、あえて人を導くことがありませんでした。ところがこの二つの作品は、明らかに指導者のものなのです。

「唱導詞」では
「師の神州を去ってより」は、直ちに永平ととってもよいですが、永平に先だって、その功をたたえる達磨大師を指すのがふつうです。神州はいうまでもなく中国で(中略)「唱導詞」全体の調子が、どうも中国仏教批判になっているのです。

「僧伽」では
「乳虎の隊に入るとも、名利の路を践む勿れ」という、名利の僧を戒めるくだりでは、とてもふだんの良寛とはみえない、激越なものが感じられます。乳虎は『荘子』の「盗跖篇」にある話で(中略)ひょっとすると革命軍の指導者を暗示しているのかもしれません。


六月二十五日(金)
良寛が、漢文力と漢詩力を駆使すれば、僧であることと併せて、中国人の貿易商に気に入られることは難しくない。
良寛が国内にゐたのなら、少なくとも曹洞宗のお寺に記録が残らない筈がない。私は良寛の渡航説に大賛成だ。(終)

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