千四百三十三 文化唯物論の勧め
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
四月二十九日(水)
科学万能の世の中において、多くの人が唯物論は正しい考へる。しかし唯物論は、秩序を破壊し、社会を破壊し、地球を破壊する。その原因は、唯物論から生まれるはずのない知能を、人間は持つためだ。
マルクスは弁証法的唯物論で、単純唯物論に対抗しようとしたが、レーニンの他党弾圧、スターリンの粛清、毛沢東の社会混乱、ポルポトの大虐殺が発生した。
そこで、単純唯物論と弁証法的唯物論に代はる方法として、文化的唯物論をここに提唱することにした。単純唯物論と弁証法的唯物論の欠点は、物質があって、太陽光があれば、今の地球上の生物と同じものが再生できるとするものだ。
しかし同じものはできない。数億年を経て人間が再生できたとしても、話す言葉は今の地上と異なるだらう。社会の仕組みや習慣は、今と異なるだらう。つまり、地球上のたくさんある言葉や社会の仕組みや習慣は、無限にある可能性のうちの、たまたま一つの組み合はせに過ぎない。
個々の言語と社会と習慣を文化と呼び、それぞれの文化は物質からは二度と再現できないことを認識する。これが、文化的唯物論である。

五月二日(土)
習慣は文化の一部だ。習慣を無視するから、レーニン、スターリン、毛沢東、ポルポトが現れる。しかし習慣を無視するのは、単純唯物論も同じだ。否、単純唯物論が習慣を無視し農民や労働者が困窮したから、弁証法的唯物論が現れ、しかしこれも習慣を無視するやうになった。
単純唯物論は、秩序を破壊し、社会を破壊し、今や地球をも破壊しようとしてゐる。単純唯物論は、人類史上最悪の思想だ。

五月三日(日)
今回の特集は、既に長年に亘り述べてきたことを一つにまとめ、文化唯物論と題を付けた。昨日までは文化唯物論としたが、「文化的」には近代的の意味もあるため、改題した。
今から二十年ほど前に「なぜ人を殺してはいけないか」が世間を賑はせた。宗教で解答を出す方法もあるが、宗教を信じない人は人を殺していいのか、と云ふ新たな問題が出てくる。
この答は、人を殺してはいけないことは人類が長年掛けて築いた文化だ、とするのが一番良い。長年掛けて築いた理由としては、自分が殺されたくなかったら人を殺すのもやめよう、或いは、互いに殺さないことが一番繁栄する、などいろいろな理由が出てくる。

五月五日(火)
「文化」と「伝統文化」は同じものだ。しかし「伝統文化」には「守旧」の意味があると勘違ひする人が多い。以前から続くだけでは、伝統ではない。外圧によらず、永続でき、反道徳的ではないものが伝統だ。
例へば、日米安保条約は70年以上続くが伝統ではない。駐留米軍と云ふ外圧があるからだ。更に細かく分析すれば、米ソ冷戦時代にはアメリカ側に付くことが有利な選択だった。しかし冷戦終結後は、アメリカの猿真似や、アメリカの都合のよい部分だけ真似する人間が出て来て、多くの人たちに役立つかどうかは不明だ。
西洋野蛮人による近代文明も、250年間続くものの、伝統とは云へない。地球温暖化で永続できないからだ。多数の野生生物を滅亡に追ひやることも、反道徳的だ。

五月九日(土)
「守旧」より更に悪いのが、既得権だ。選挙や議会が、既得権の争ひに転落すると、これは民主主義ではない。多数決かどうかで、民主主義かどうかが決まるのではない。しかし既得権をうち破ることは容易ではない。人類史で、未解決の問題だ。
弁証法的唯物論の労働価値説は、既得権を克服する唯一の方法だ。しかし化石燃料を消費することは、労働せずに新たな価値を生むから、労働価値説に歪みを生じる。太陽光や風力発電も、地下資源を消費するし、太陽光を地上で反射しないことは地温を上げ、風車は野生生物に悪影響を与える。永続可能状態での弁証法的唯物論は、単純唯物論より優れる。

五月十二日(火)
宗教は習慣の一部だ。人間にとり一番必要なのは衣食住だ。生きるには食が必要だし、体温を保つには衣と住が必要だ。動物は食があれば生きられるから、これが動物と人間の分岐点だ。
二番目に必要なのは習慣だ。これは動物も同じで、本能として習慣を身に付けるものと、親の真似をして習慣を身に付けるものがある。人間はほとんど後者だ。
そして人間の言語は習慣だ。親が話すから、子も話す。親や隣り近所が話さなければ、子も話さない。そして習慣の一部に、宗教がある。世界中のほとんどに宗教があるから、これは重要な習慣だ。(終)

(歴史の流れの復活を、その三百七十)へ (歴史の流れの復活を、その三百七十二)へ

固定思想(二百四十四)固定思想(二百四十六)

メニューへ戻る 前へ 次へ