千四百三十一 平川彰「インド・中国・日本 仏教通史」
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
四月二十五日(土)
平川彰さんの「イント・中国・日本 仏教通史」は、仏道を全般に亘り広く知りたいときに、有益な図書だ。最近の図書に見られるやうな、上座に対する偏見もない。
釈尊の死後、(中略)仏塔は信者の手で経営され、(中略)仏塔礼拝から仏陀の救済を希う信仰が起る端緒となった。
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これは同感だ。今でも仏塔は信者が管理する。しかしこの状態から大乗が生まれることはないはずだ。上座の国々では現在でも、信者が仏塔を管理する。だからと云って大乗が生まれる気配はない。
上座の比丘が仏塔を訪問し、そこで読経をしたり瞑想をすることもある。そもそもタイやミャンマーでは、男の信者は一時出家することが普通だから、信者が独自の教義を作ることはない。スリランカは一時出家の習慣がないから、この点は該当しないが、信者は食事や衣、お寺の寄進など、比丘とは親密な関係にある。
仏陀の教えは、入滅の直後から教法と戒律とに分かれて伝持された。
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その根拠として、第一結集のときに、教法はアーナンダ、戒律はウパーリが中心になったことだが、別々に伝持されてはゐないのではないか。戒律は比丘にとり必要だし、教法は参考知識として重要だ。暗記の分担として、どちらかを担当することはあるだらう。
倫理的行為が人間の生活を幸福にし、豊かにすることを洞察して、仏陀は人々に倫理をすすめた。
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これは同感だ。倫理の発展が、解脱を目指すことであり、倫理と解脱は矛盾しない。
人間存在を「五蘊」に分析して(中略)それぞれが無常であり、苦を本性とし、無我であることを示す「五蘊無我説」
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生命を五蘊に分解できることを以って無我を主張することがあるが、これは変だ。それに比べて五蘊のそれぞれが無常、苦、無我だとするのなら、これは賛成だ。
パーリの小部について
古い成立の経典や有名な経典を含んでいる。
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誰もが賛成できる内容だ。このあと言及される本生経についても賛成だが
ここに仏身論の萌芽があり、また衆生救済の利他の精神が見られる。これが後に大乗仏教をおこす動因の一つとなっている。
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仏身論は議論に屋上屋を架す議論であり、さう云ふ議論をしたい人がするのは構はないが、それ以外にとっては時間の無駄だ。衆生救済の利他は仏道の根本であり、大乗だけにあるのではない。
アショーカ王時代の仏教を検討してみると、それはかなり素朴な形であったようであるから(以下略)
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北伝と南伝でアショーカ王の即位年数が異なり、平川さんは北伝が正しいとする。その理由は
アショーカ王の碑文から見る限り、王の時代にすでに、僧伽が二大教団に分裂していたとは見難い。
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これも賛成だ。
上座仏教の論蔵は「七論」といわれ、(中略)内容も素朴であり、『阿含経』からあまり離れていない。
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平川さんの主張には、偏向がない。この書籍は1977年の出版で、同じく偏向はない。この後、上座に対する偏向が発生したのだらう。
在家者が、仏陀の示した「苦の生存」から脱出しようと思うならば、仏陀の大慈悲にすがる以外に方法はない。
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せっかく平川さんを誉めたのに、もう否定することになった。在家者は、まづ転生や現世での幸福を願ふ。それには倫理に従ふことを土台として、比丘を支へることがそれに続く。更に考慮を深めれば「苦の生存」から脱出しようと考へるが、それには出家が一番だ。仏陀の大慈悲にすがる選択肢はない。
『三品経』は(中略)懺悔・随喜・勧請を説く経典である。過去の悪を仏前に至心に懺悔することが、行法の中心になっている。原始仏教では中貪瞋癡による悪を仏前に懺悔する方法はなかった。
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上座の仏道では、瞑想の中で、或いは読経の後で、懺悔することができる。定型の儀式として懺悔が無いだけで、機会は幾らでもある。

四月二十六日(日)
第三章の中国仏教に入り
頓悟・漸悟が中国では早い時代から問題になるのであり、これは中国仏教の特色の一つである。(中略)インド仏教にはいわゆる頓悟説は存在しない。(中略)輪廻思想に立つインド人には、生を繰り返して修行を続けるのは当然のことであり、頓悟説の生じる余地はなかったと見てよい。
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達磨について
「二入四行」を説いたという。二入は理入と行入で(中略)理入は、教をかりて宗を悟り、衆生の同一真性なるを信じ、壁観に住して自他なく(中略)これは頓悟を示し、行入は漸悟を示したものといい(以下略)
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ここまでは達磨に対する一般論だ。続いて
壁観に住する点で、それ以外の中国の禅が「四念処観」を重視するのと、大きく異なる。
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中国の仏道も「四念処観」を重視したとの情報は貴重だ。と同時に、達磨の禅が中国に広まった事実を尊重し、その原因を精査する必要がある。
アビダルマは仏教の基礎学であり、アビダルマの法相に通じなくては、大乗仏教の経典や論書を読んでも、その深義に達することはできない。そのために中国仏教においても古くから毘曇の研究が行なわれた。
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毘曇とはアビダンマのことである。
『成実論』は(中略)有部の毘曇の学説を解釈したものであるが、しかし経量部の思想や大乗の説を採用して、有部の説を解釈し、新しく組織したものである。
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それはどんなものか楽しみだ。ところが
現在有体・過未無体の説を採り、人法二空を認め、俗諦有・真諦空の二諦を説き、中道・仮の思想を述べており、小乗の論としては極めて進歩した論である。
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小乗の蔑称について、1977年の出版なのでやむを得ない。それよりここに書かれたものは、無駄な議論だ。進歩したのではなく複雑化と云ふ退化、劣化、堕落だ。これが大乗発生の原因と考へてきたが、さうではないやうだ。続けて
しかも羅什の翻訳であるために、当時この論は大乗の論と見られていた。
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その後、隋の時代に嘉祥大師(吉蔵)、天台大師などが大乗とは認めなかった。
四十頁先へ進み密教について
仏教にはすでに原始仏教時代にも、護呪や蛇呪等があった。さらに大乗仏教になると、種々の陀羅尼が説かれている。
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当時は科学の進歩が遅く、そして仏道と科学が未分化だった。だから今から見れば科学的ではないと思はれるものが含まれるかどうかで、密教かどうかを決めてはいけない。
会昌の破仏によって教理仏教の宗派がすべて衰えたとき、禅宗のみは、ますます盛大におもむいた。その理由は、禅宗がまったく中国的な仏教であったことと、朝廷や貴族等の援助に頼らないで(中略)自給自足の修行生活をなしたことに由来すると満てい。
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これは貴重な情報だ。と同時に、朝廷や貴族等の援助に頼ると無駄な議論になると見た。悪い表現を用ゐると、援助獲得競争として無駄な議論が発生する。
次に宋の時代になると
朱熹(一一三〇-一二〇〇)によって大成された宋学が、仏教に強く影響されているいることは、一般に認められている。(中略)仏教も道教も習合して、著しく道教化した仏教となった。
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清は満州族の建てた国で
ラマ教を特に重んじたが、(中略)漢民族を統治するためには「朱子学」を利用している。
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江戸時代に、仏道から朱子学に移行したのは寺請け制度が原因と思ってゐたが、清国の影響も考へられる。

四月二十九日(水)
日本の仏道に入り
仏教の教学は推古朝まではもっぱら朝鮮を介して輸入されたが、推古朝から遣隋使が派遣され、さらにそれが遣唐使に変ったために、それ以後は中国からの仏教輸入が盛んになった。
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これは重要な情報だ。
梵網戒のみで大僧になるという説は、中国には存在しない。天台大師も声聞の二百五十戒を受けて、さらに菩薩戒を受けているのである。(中略)中国でも禅宗などになると、受戒は必ずしも厳格に行なわれなかったようであるが、しかし菩薩戒だけでよいと明確に主張した人はない。
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後に、最澄の開山した比叡山は二百五十戒を受けないことになる。
しかし最澄の「臨終遺言」はかなり厳しい内容のものである。(中略)最澄が身命を賭して実現した大乗戒も、比叡山では間もなく有名無実のものとなったのである。
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今の天台宗は、最澄の「臨終遺言」を復活させるか、二百五十戒を復活させるか、どちらかを実行してほしい。(終)

固定思想(二百四十三の四)固定思想(二百四十五)

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