千四百十六(その二) 馬場紀寿「初期仏教」を批判
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
二月八日(土)
馬場紀寿さんの「初期仏教」は、一回読んだものの不信感を持った。しかし先月のミャンマー経典学習会に来られた人が、馬場さんから云はれた内容を話したので、私は「馬場さんはまともなことを言ってゐますね」と相槌を打った。それは馬場紀寿さんのもう一冊の著書「上座部仏教思想形成 --ブッダからブッダゴーサへ」中村元さんの原始仏教は幻が頭にあったからだった。
そこで「初期仏教」を再度読み直すことにした。読み終へた感想は、この本は同意できないことが多い。本文に入る前のはしがきの部分に
初期仏教が、近代西欧で作られた「宗教」概念に、あるいは我々が抱いている「宗教」の印象に当てはまるのか、はなはだ疑わしい。
(ⅱ)
その理由として、(1)ユダヤ教、XX教、イスラム教のやうな創造神が存在せず、(2)ヒンドゥー教のやうに神々を祭って願ひを叶へようとしないといふ。
まづ仏道は、バラモン教への批判から生まれた。しかしバラモン教と同じく輪廻を説くし、神々の存在も認める。(3)輪廻は因果によって分かれることと、(4)神々も仏道に期待する。この(3)と(4)こそ、仏道が宗教である証拠だ。
仏道は輪廻を認めても、因果によるとは説いてゐないと馬場さんは云ふかも知れない。しかし修行者に供養することが在家の善行になると考へたのは事実だ。それが無ければ修行者は生きられない。つまり仏道は宗教だ。
次に仏典の読み方には、三種があると云ふ。(1)現代的な自由な解釈、(2)教団の伝統的読解、(3)歴史の文脈のなかで解釈。馬場さんの著書は三番目を目指すと云ふ。
私の意見は、まづ長く続いたものは今後も続く確率が高いから尊重しなくてはならない。上座仏道の国々における仏道だ。
次に長く続いた理由を調べるとともに、歴史的に無理があるのに続いたのなら、それの補正も必要だ。例へば或る解釈がずっと続いたが、これはそのときの国王による恣意が原因、或いはサンスクリット語を漢訳したときの誤訳が原因だとすると、これらは永く続いても尊重してはいけない。
歴史の文脈のなかで解釈することは、非上座の国、特に先進国(地球を滅ぼす行為が先に進む国)では最も正しいと思はれがちだが、ダンマパダやスッタニパータが最古のものだと信じられてゐるのに馬場さんが違ふ説を発表したり、パーリ語はインド西部の言葉と考へられてきたのに、別の説が出てくるなど、変動が大きい。つまり(2)に基いて考察するのと、(3)に基いて考察するのでは、それぞれの背後を考へれば、分類するほどの差は無くなる。

二月九日(日)
ブッダは、祭官たちが執行する祭式に代わって、梵天界に生まれ変わるための「四梵住」という瞑想を教える。四梵住とは、「一切を自己として」すなわち一切の生類を自己と同様だとみなして、慈しみ(慈)、憐み(悲)、喜び(喜)、平静(捨)な無量の心で四方を満たすことである。(中略)「四無量心」とも呼ばれる。(34)
ここまで同感。このあと
別の仏典では(中略)ブッダはサーリプッタに、梵天界に生まれる以上になすべきこと、つまり「解脱があるのになぜ教えなかったのかと、ほのめかす
(34)
これも同感だ。しかし
ヴェーダの伝統的価値を認める人々から、仏教はしばしば唯物論とともに批判され、「虚無主義者」(サンスクリット略)とか「隠れ唯物論者」(サンスクリット略)だと呼ばれた。このことは、インド社会で、仏教が唯物論に次ぐ異端思想に位置づけられていたことをよく示している。
(35)
仏道は輪廻と因果に従ふから宗教だし、唯物論ではない。馬場さんのヴェーダ側の引用は、初期仏道を唯物論に持って行きたい馬場さんの恣意的選択だ。この引用を読めば多くの人が、初期仏道は唯物論だと勘違ひしてしまふ。或いは解脱を以って唯物論としたいのなら、その旨を明記すべきだ。このことは次の
仏教は輪廻からの解脱という思想をジャイナ教と共有しつつ(中略)解脱する「主体」を認めなかった
(35)
主体はないのではない。あるのだが成因は渇愛であり、人生乃至輪廻が苦であることを悟れば、解脱こそ最良の道と判る。
仏教は、天界への再生を目指す生天論、人間は諸要素の集合に過ぎないと考える要素論、輪廻からの解脱を目指す解脱論を説いた。ただ、それらはすでにバラモン教、唯物論、ジャイナ教で説かれていた。
(37)
間違ってゐる部分を赤色にした。諸要素を集合させるものは何なのか。それこそ魂であり、しかし成因と苦と解脱については、今述べたとほりだ。

二月十日(月)
部派は(中略)本山と末寺をもった中央集権的・相互排他的な組織ではない。(60)
通信手段がなかったので、多数の地域サンガが上下関係なしに存在したと考へてきたから、馬場さんに賛成。だから、今ある古文書は、たまたま存在しただけでその部派を代表するかどうかも不明だ。だから根本分裂の後は、全ての部派が上座または大衆を名乗ることは問題なく、現在の上座が上座を名乗ることは、何の問題もない。
説一切有部は、上座部大寺派と同様、いったん三蔵を確立した後で、三蔵に収録されていなかった仏典を「ブッダの言葉」として承認し(中略)韻文仏典群を三蔵に加えたという点で、両派のよく似た形成過程をたどったのである。
(68)
そればかりか化地部、法蔵部、大衆部についても
三部派は、経蔵として「四阿含」を挙げるとともに、経蔵のなかに「小蔵」(漢訳では「雑蔵」)を組み込んでいる。
(69)
五つの部派で行なはれたのであれば、ブッダが説いたと考へるべきだ。韻文は注釈文無しには理解できないし、簡単なことを言ってゐるやうに短絡してしまふ。だから三蔵に組み込まなかったと考へることもできるが、それより日常に唱へるものだから、わざわざ三蔵に組み込むまでも無かったとも考へられる。それなのに馬場さんは
韻文仏典は、(中略)仏教の出家教団のなかで流布し愛好されていても、当初は結集仏典としての権威はなかった。
(74)
それは逆だ。流布し毎月毎週毎日のやうに読誦されれば、三蔵に組み込む必要がないほどに権威があった。このあと馬場さんは、相応部経典を引用する。
彼ら(未来の托鉢修行者たち)は、如来により説かれた、(中略)諸経典が説かれているときには、聞こうとせず(中略)詩人たちによって作られた、詩人たちの、美しく飾られた音節、美しく飾られた表現から成り、〔教えの〕外部の、弟子たちによって説かれた諸経典が語られているときには、聞こうとし(中略)それらの教えを学び習得すべきだと考えるだろう。
(74)
韻文は、美しく飾られた音節や表現を目的としたものではなく、暗記しやすいものだ。昔は暗記で後世に伝へたから暗記しやすいことは重要だ。韻文はブッダが語った権威のあるものであり、詩人や外部の教への弟子たちによって説かれたものではない。

二月十一日(火)
ハラモン教(中略)では、最高神ブラフマンから四姓が生じたと説くから、「四姓神授説」とでも呼びうるものなのに対し、仏教は、四姓が人間によって作られたものだとする一種の「社会契約説」を説く。(127)
権力者について論じるときは、「社会契約説」の語を用ゐてもよい。しかし仏道を論じるのに、この語は不適切だ。まづ仏道が西洋哲学の範疇に入ってしまふ。
契約は、する人もしない人もゐる。馬場さんがこのあと引用する長部経典は人類の始まりからの物語だから、これは契約ではなく本能だ。例へば人間が言葉を覚へるのは契約ではなく本能だ。同じやうに、権力者が現れるのはニホンザルの社会でボスザルが出るのと同じで本能とすべきだ。そこには戦を伴ふ。一方で経典は転輪王の物語がある。つまり本能を宗教に進化させた。
現在、世界政府の実現を信じている人は、おそらくほとんどいないだろう。しかし、第一次世界大戦後に国際連盟、第二次世界大戦後に国際連合が生まれた歴史を想起したとき、「武器の時代」を経て世界がひとつになるという予言を、我々は古代人の夢だといって笑うことができるだろうか。
(138)
これは場違ひな主張だし、無意味で間違った主張だ。まづ世界政府ができないのは、アメリカが傲慢だからだ。EUはイギリスが離脱するとは云へ、世界政府の小型版だ。国連は、米ソ対立と、その後のアメリカ一極時代の到来でほとんど機能しないが、国連以外の世界機関はそれなりに機能してゐる。つまり世界政府はできないが、それに代はる機関がたくさんあるし、不十分な理由も明らかだ。
不十分な二番目の理由として、西洋文明の押し付けがある。アメリカが傲慢なことは先ほど述べたが、ヨーロッパにもアメリカほどひどくはないにしても、非先進国に対し傲慢なところがある。これは経済格差による傲慢が大きいが、文化の違ひもある。
日本と中国、韓国でさへ、文化の違ひがある。それを世界に広げれは世界政府は困難だと考へられるし、単純多数決でないのなら可能だとも考へられる。ブッダの時代の、アーリア系、モンゴル系、ドラビタ系が居住するインドとその周辺について、一つの国にするのは無理だと考へるか、それとも当時は何十年が経過しようと変化のない世の中だから言語や文化の違ひは無視できたか。二通りの考へ方ができる。
しかし馬場さんがそこまで考へたとは思へない。「古代人の夢だといって笑うことができるだろうか」なぞと軽薄なことを言ってはいけない。
次に馬場さんは、一切の悪を為さず、善を備へるといふ、有名な諸仏の偈を引用し
悪をなさず、善を身につけるという字率は、究極的には心を清めることを必要とする。しかし、心を根本的に変えるには、ある知的認識が不可欠である。
(140)
心を清めることは、決して瞑想のための手段や一段階の到達点ではない。因果の法則で功徳を積む。在家では生天論になるし、比丘(近年は在家の修行者を含む)にとっては涅槃への前進となる。

二月十三日(木)
仏教はあくまで生存を諸認識機関の束、身体と諸能力の合奏としてとらえる。輪廻の主体を立てないという点で、仏教は、バラモン教やジャイナ教と根本的に異なっている。(165)
諸認識機関を束ねるもの、身体と諸能力を合奏させるものがある。つまり輪廻の主体は無常だが存在し、それを涅槃させることが仏道だ。
バラモン教では、「欲望⇒祭式行為⇒天界への再生」という因果関係が説かれていた。ウパニシャッド哲学では、祭式を執り行う動機として、「欲望」が位置付けられている。(中略)輪廻からの解脱を目指すジャイナ教でも、因果の連鎖において再生が起こることを説いていた。
(169)
つまりこの当時は、宗教者に限らずほとんどの人が輪廻を信じてゐた。社会が、輪廻優勢なのか、それとも唯物論優勢なのかを考へなくてはいけない。馬場さんは、輪廻優勢の中でブッダの説いたことを、唯物論優勢の現代で、しかも読者に突飛な印象を持たせる意図で書いた、と批判されるべきだ。
再生へ向かって渇望が駆動するという生存の在り方を、批判的に明らかにした点で、仏教は唯物論と袂を分かったのである。
(170)
仏道は再生に向かひ渇望することを批判なんかしてはゐない。そればかりか善いことを勧め、悪いことを禁止することで、良い再生となることを勧める。しかし良い再生になっても、いづれ悪い再生もやって来る。輪廻が虚しいことに気付き、これを苦と名付け解脱を勧める。仏道が唯物論と袂を分かったのは、輪廻を認める事であり、因果を認める事だ。(終)

前、固定思想(二百三十九の一)へ 次、固定思想(二百三十九の三)へ

(東京大学批判その二十四)(東京大学批判その二十六の一)

メニューへ戻る 前へ 次へ