千二百六十七 1.馬場紀寿「初期仏教」及び十名による「東洋思想第8巻 インド仏教1」、2.瞑想方法
平成三十一己亥年
二月三日(日)馬場紀寿さん「初期仏教」
馬場紀寿さん著「初期仏教」を読んで、多少は有意義なことが書いてあったとしても、私には不満が残った。馬場さんは「上座部仏教思想形成 --ブッダからブッダゴーサへ」で、小部はブッダゴーサにより三蔵に組み込まれたとした。それなのに、この書籍ではブッダゴーサが組み入れたとはしない。そればかりか説一切有部などにも小部に該当するものがあると云ふ。

二月三日(日)その二「東洋思想第8巻 インド仏教1」
「東洋思想第8巻 インド仏教1」は今から10年以上前に読んだことがある。そのときの感想は、五蘊説で無我を主張してゐることが、本当にそれが仏法の本質なのかと疑問に思った。
六道を輪廻することは、全体では苦労が多くだから輪廻を止めることが涅槃だと考へることはあり得る。しかし五蘊説で無我を主張することが正しいかどうか。
この本は十人の執筆者がゐるとは云へ、章によっては大乗仏法側からの見方だと感じた。しかし上座部への悪口がないのはよいことだ。

二月九日(土)「東洋思想第8巻 インド仏教1」を呼んで気付いたこと
「東洋思想第8巻 インド仏教1」は、北伝の部派漢訳経典とサンスクリット語原本を元に論じてゐる。ここで一つ気が付いたことがある。当時のサンガは中央組織が存在せず、従って時代が経つにつれ、師匠弟子の関係で枝分かれする一方ではなかったか。逆向きの傾向として、近隣のサンガが交流したり修行僧が移動したりで枝分かれした思想が再統合することはあり得る。
だとすれば十八派や二十派と言ってみたところで、それは論蔵や注釈書を編集する能力の或る大寺院のことで、一般のサンガは特定の部派に所属してゐる意識はなかったのではないのか。
それはともかくとして、部派間で経蔵と律蔵はほぼ共通で、論蔵だけが共通点の無いことを示したことは貴重だ。最近の図書には大乗非仏説に対抗するため、部派仏教は原始仏教と異なるだとか、部派間の違ひは大きいとばかり主張する人がゐる。実際には共通点が多く差は少ないはずだ。

二月十日(日)瞑想方法
或る本で中村元東方研究所の釈悟震さんが、ヴィパッサナーを主張する人々の見解を紹介し、その中に
サマディ(定)、サマタ(止)修業は問題視することなく、ヴィパッサナー(観)のみを強調する

その次に
しかし一方で、ヴィパッサナーの修行は、大乗のタントラ修行方法であり、ブッダの根本的修行方法ではない、という批判もある。

まづヴィパッサナーの修行は必要で、その前段階でサマタも必要とするのが一般だし、その一方でサマタを省いて略式でヴィパッサナーに行く方法もある。ヴィパッサナーには、ダイヤモンドを思ひ浮かべるなど近年はいろいろな方法がありこれをタントラとするなら、他の瞑想法からの批判として云ふこと自体は仏道の発展に役立つから悪くはない。しかしヴィパッサナーそのものをタントラとするなら、それは正しくない。次に
スリランカ仏教徒の修行方法としては、①パーリ経蔵と注釈書『清浄道論』などによる修行方法、②全く経蔵のみによる修行方法、③ミャンマーのマハシ・サヤド師(1904-1982)が提唱した修行による方法、④上記の①②③を適当に使い分けての修行方法、があり、頭陀行という難行や苦行はほとんど行っていない。

私自身は②が良いと思ふ。その一方で長年に渡る経験の集大成が『清浄道論』であり、いづれこれが有益だと気付くやうになると思ふ。私自身は長年サマタに留まり、一昨年辺りからヴィパッサナーも重視するやうになった。その場合も経典にある六根、輪廻、体内の瞑想に留まる。将来『清浄道論』を重視するかどうかは、そのときにならないと判らない。(終)

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