千二百四十四 馬場紀寿さん「上座部仏教思想形成 --ブッダからブッダゴーサへ」中村元さんの原始仏教は幻)
平成三十戊戌
十二月十三日(木)
馬場紀寿さんの著書「上座部仏教思想形成 --ブッダからブッダゴーサへ」は良書だ。前にも紹介したが、優れた書籍なので再度、紹介することにした。図書館からうっかり二度借りたことが原因だが、危うく大切な情報を見逃すところだった。
前回から今回までの間に、上座部の悪口を云ふ劣悪な書籍を何冊も見た。だから尚のこと、良書の大切な情報は紹介することにした。まづ第一章でスリランカについて
七世紀にインドを旅行した玄奨によれば、無畏山寺派は大乗と上座部を兼学している。実際、無畏山寺や祇多林寺の遺跡からは、大乗経典を記した碑文が発見されている。

ここで無畏山寺と祇多林寺が大乗なら、注目すべき情報ではない。しかし、この少し前で馬場さんは
三派はいずれも「上座部」の系統だったが、大乗仏教に対する態度は、大寺派とその他二派ではまったく異なっていた。

つまり、上座部の系統で大乗を受け入れた。大乗の発生について、パゴダを管理する信徒から発生したとする説が、近年は一時有力になった。私自身はこの説に反対で、まづ大乗が信徒から発生したのなら具足戒の僧侶が存在することは不自然だ。次に、現在でも上座部の国ではパゴダと信徒のつながりは深いが、新たに大乗が生まれる気配はない。
私は、上座部の比丘がヒンドゥー教の影響を受けて瞑想の方法として大乗経典を作ったと想像してゐる。上座部の各派で大乗経典の受け入れ度に差が出て、そこから別れたのではないだらうか。

十二月十五日(土)
旧三蔵の成立後も、旧三蔵の外部には「ブッダの言葉」として認められた文献が蓄積されていった。
ブッダゴーサによりこれが小部として組み込まれたとする。馬場さんの古文書の調査結果なので、これはおそらく正しい。その一方で、小部に所属する法句経(ダンマパダ)と経集(スッタニパータ)は、ブッダの言葉が含まれる最古の経典と云はれてきた。
だから私はこれまで、ブッダの説いた教義は簡単なもので、複雑なものは部派時代のものと考へてきた。それだけだと世間の常識にすぎなくなってしまふので、瞑想があり、そして上座部の伝統は尊重すべきだと考へてきた。
しかし旧三蔵こそ第一次結集や第二次以降の結集の結果だとすると、小部は簡単だったり仏法とは無縁の話のため結集のときは除外されたと云へる。複雑なものがブッダの直説だとすれば、それは望外の喜びである。決して自力で修行するのではなく、涅槃への方法が示されてゐるからだ。

十二月十六日(日)
この書籍では、上座部大寺派の成仏伝承が、五世紀までに四諦型三明説から縁起型三明説に変化したことを利用して、ブッダゴーサの影響、他派との関係を探る。それによると
下限年代から見る限り、縁起型三明説の形成は、上座部大寺派より他部派がはるかに古い。おそらく、上座部大寺派は縁起型三明説をインド本土から導入したと考えられる。

マハーカルナさんが、根本分裂のときに上座部、大衆部、分別説部の三つに別れ分別説部の後継がスリランカの大寺派つまり今の上座部、或いは上座部、大衆部に分裂し上座部の異端が大寺派だと講演した。これがどれだけ間違ってゐるかがよく判る。

十二月十八日(火)
中村元さんは、法句経(ダンマパダ)や経集(スッタニパータ)をブッダの話した言葉が含まれるとして日本に紹介した。だから多くの人が、原始仏教はもっと簡単な内容だったと思ふに至った。
しかし小部は後に経蔵に加へられたとなると、第一次から始まる結集では、法句経や経集を簡単すぎるとして経蔵に加へなかったことになる。原始仏教は幻で、上座部の仏道が昔から続いたことになる。
スマナサーラ長老が、仏法は宗教ではなく科学だと主張するとき、それは宗教と無関係の人たちに関心を持ってもらふためで、スマナサーラ長老の親切心だと信じる。しかし日本の駒澤大学博士課程に留学し、中村元さんの原始仏教説の影響を受けたのも事実だと思ふ。

十二月十九日(水)
馬場紀寿さん「上座部仏教思想形成 --ブッダからブッダゴーサへ」は、中村さんの説をひっくり返す威力を持つ。だからもう一度精読することにした。まづ、縁起型三明説は島史にもあるから、ブッダゴーサの独創ではないとする(37頁)。次に説一切有部は三通三明、根本説一切有部は六通(40頁)、説一切有部でも三明が四諦から縁起へ(44頁)。
私はこれまで中村元さんの影響を受けて初期の仏道は簡単な教義だと思ってきたから、四諦は後世の追加だと思ってきた。理由の一つに漏集滅道があることもある。これについて馬場さんは、一般的な四諦説のほかに、特殊な四諦説だとする(47頁)。なるほど一般的な四諦説を例にとると、人生は楽しいがこれを苦だと悟り、次に苦の原因と止める方法を悟り、すると涅槃に達する。これなら滅と道は重複ではないから納得できる。

十二月二十日(木)
仏塔に、ブッダの遺骨に代へて、或いは遺骨とともに納める縁起法頌(えんぎほうじゅ)が、二世紀から七世紀までにインド亜大陸に広まった。これは縁起三明説の広がりと一致する(53頁)。さて無為法は永遠不滅の法、有為法は条件により適合する法だが
説一切有部は、択滅(涅槃)とともに虚空や非択滅を無為法に数え、(中略)法蔵部は「縁」など七項目または九項目を無為とし(中略)化地部は「縁起」を含めた九項目を無為とし(中略)大衆部も「縁起」など九項目を無為と認めていた。

そして上座部大寺派も論蔵では無為は涅槃に限定されてゐたが次第に拡大した。しかしブッダゴーサは涅槃以外に拡大しなかった(64頁)。

十二月二十一日(金)
以上が第一篇「成仏伝承の展開」で、ここから第二篇「修行体系の再構築」に入る。
ブッダゴーサの清浄道論は解脱道論を元に編集したため、戒(四種)-->四禅(分別論)-->五神通-->四諦の正しい覚知(転法輪経・無礙解道)となる。しかし清浄道論は「三種の完全知」を中心に置いたため四諦観察を削除した(121頁)。
七世紀にインドへ行った義浄は
四部派の中で大乗と小乗の区別は定まっていない。北インドや南海地方ではもっぱら小乗である。中国(唐)では大乗を志している。他の諸地域では大乗と小乗が混在して実践されている。その趣旨を考えてみても、律は異ならず五篇を定めており、[大乗と小乗が]共に四諦を修習している。もし菩薩を礼拝して大乗経典を読むなら、大乗と呼ぶ。これをしなければ、小乗と呼ぶのである。
(126頁)
この当時は大乗も上座部の修行を行ひ、付加して菩薩を礼拝して大乗経典を読むのであった。これなら大乗も許容範囲だ。

十二月二十二日(土)
苦集滅道の四諦について、私はこれまで重視してこなかった。その理由は苦は名詞、集と滅は苦に対する反対方向の動詞、道は滅と同じ内容を名詞にしたものだ。また苦の代はりに漏とする四諦もあるからだ。その後、人生は楽だがそれを苦と悟ることと、楽の人生にも苦があるから人生は苦だとして苦を軽減することと捉へた。つまり苦は動詞になる。次に苦の原因が集、苦を消滅させる方法が滅、これらを悟って涅槃することが道と考へるに至った。つまり道も動詞だ。
馬場さんの本は
『解脱道論』は、苦・集・滅・道が順次に覚知されるという立場(四諦次第現観説)ではなく(中略)四諦すべてが同時にかつ一瞬に覚知されるという立場(四諦一時現観説)に立っている。
(97頁)
解脱道論では、有為法(苦・集・道諦)とともに無為法(滅諦)を観察する(128頁)。私は道諦が無為法で、滅諦は有為法だと思ふ。

十二月二十三日(日)
過去に多くの人たちが言ってきたやうに、ブッダゴーサは自分の説を清浄道論に組み入れたのではない。それは馬場さんの本でも認めてゐる。一方で馬場さんは、経典を固定したためそれ以降に大乗と差が出たのではないかとする。
この説は、二つ問題点がある。まづ上座と大乗の差が、菩薩の礼拝と大乗経典の読誦に留まるのなら、私は大乗に反対しない。二番目に、上座のみの地域、上座と大乗の混在地域、大乗のみの中国(唐)と民主の地域があった以上、ブッダゴーサの経典固定が、上座と大乗を分けたとは考へられない。
以上の理由から、私はブッダゴーサ以後も上座部大寺派が上座部他派に対し異端だったことは無いと考へるし、馬場さんの説でもブッダゴーサまでは異端ではなかったことを認めなくてはならない。マハーカルナさんの、上座部大寺派異端説は間違ひなので改めて、再び上座部比丘として出家してほしい。(終)

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