千四百十六(その一) プラユキナラテボー「よく生きること、よく死ぬこと」
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
二月一日(土)
「僧侶が語る死の正体」と云ふ書籍は、二名の比丘と、その他三名によって書かれた。二名の比丘は、プラユキナラテボー(プラは比丘への尊称)とスマナサーラ長老で、このうちプラユキナラテボーの書かれたものは、タイの上座仏道のことがよく判る内容なので、ここで紹介したい。まづタイのお寺には
森林寺と、町の学問寺と、村のお寺と、三種類あります。
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私が想像するに、村のお寺は町にもある。その一方で、町には学問寺もある。森林寺は森林にあるが、村と呼べないことはない。托鉢に行く範囲に村人がゐるからだ。つまり、寺には三種あるが、所在地で区別できるものではない。
森林寺の朝は早く、スカトー寺では午前四時から本堂で読経が始まります。そのため三時すぎには起きて準備をします。読経時は僧歴順に座ります。日本では仏像は真ん中の上の方に安置されていますよね。タイでは一番右側に僧歴の最も長いお坊さんが座しますが、そのお坊さんの斜め前の位置に、仏像が置かれています。(中略)ブッダは修行されて悟られた私たちの尊敬すべき先輩として、一番右に座しているという感じですね。「仏様!」と崇め奉る感じではなく、親しみを持って、私たちも一緒に並ぶというスタイルです。
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科学万能の世の中で、仏像は拝む対象ではなく師匠または先輩を祀ったとする主張が多くなった。しかし菩提樹や仏足を祀ることから仏像を祀ることへの変化の後は、その長い歴史を重視して、仏像は拝む対象とすることが好ましい。それはパオサヤドーが仏像を布で丁寧に磨くビデオを観て判った。或いは、仏像が一体ではなく多数祀る場合が多いことでも判る。
それはプラユキナラテボーも承知のことで
お経は毎日、朝晩くり返し唱えることで、ブッダの言葉から修行の指針を得て、自分の体をブッダの教えで満たしていきます。それによって、「無我」や「無常」など、ブッダが観た実相に視点をチューニングして、そうしたモノの見方ができるようになるという意味でも、非常に大事な時間です。
(87)
続いて
読経を終えた後、三〇分から一時間ほど瞑想の時間をとったり、説法を聞いたりします。そんな感じで朝のお勤めは終わります。
日の出と同時に、村に托鉢に出かけます。だいたい五キロぐらいの距離を裸足で歩いて回ります。小学校の子供たちはお坊さんが通ると、道の端に寄ってかわいらしい合掌姿でお辞儀をします。
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合掌姿でお辞儀と云ふところに、比丘への尊敬の度合ひが判り、一方で比丘の側も権力や権威ではないことが読み取れる。
村人は、お坊さんを家の軒先で待っていてくれて、ほかほかのご飯を托鉢の器に手で入れてくれます。東北タイはうるち米ではなくて、もち米文化なので、手で食べます。その他のおかず類はビニール袋などに入れて渡してくれます。お坊さんたちは、村人の幸せを願って短い祈りを捧げます。
(88)
ビニール袋は出現してまだ五十年だから、昔からの伝統ではない。しかしミャンマーとの違ひが判る。タイ東北部がもち米なのも、貴重な風物詩だ。
スカトー寺は比較的大きなお寺なので、近場の村への托鉢だけでは食料がまかないきれないため、僧侶は四つの村に分散して向かいます。
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これも貴重な情報だ。他の村は別のお寺が托鉢で来るかも知れない。だから昔からあるお寺が少しづつ大きくなる。これが望ましい。
樹下に座して瞑想をしたり、一〇メートルほどの距離を行ったり来たりして歩行瞑想を行います。私の寺では、歩行瞑想はスローモーションではなく、普通の速度で一歩一歩気づきを保ちながら歩きます。日中はそうした瞑想修行を中心に、その他、経典学習や清掃、お寺来訪者の世話や指導にあたったりして過ごします。夕方六時からまた一同が本堂に集まり、読経、瞑想、説法の聴聞を行います。
(89)
瞑想だけが修行ではなく、お寺来訪者の世話や指導も修行だ。なぜならこれらの原因に対して結果がない筈はない。仏道が宗教かどうかが議論になることがある。原因には結果があることこそ、最大の宗教だ。托鉢も仏像を磨くことも、すべて原因になる。

二月二日(日)
タイでは亡くなられた人がいると、まずお坊さんが呼ばれて「枕経」を唱えます。その後、近親者や村人が三々五々集まって来て、故人のお宅でひととおりの読経供養が行われた後、僧侶、村人総出で葬列を組んで火葬場まで棺桶をかついで歩いて行きます。(90)
枕経と、火葬場への出発前のお経。日本と類似するのは望外の喜びだ。
田舎では、だだっ広い広場のようなところが墓地兼火葬場になっていて(中略)木を組み、その上に遺体を乗せ荼毘に付すというところもまだあります。ですが、最近はだんだんとお寺の中に火葬炉の施設が備えられ(以下略)
(90)
お寺に火葬炉は貴重な情報だ。
火葬している間は、「所行無常偈」や「アビダンマ」などが僧侶により唱えられます。(中略)遺体は一昼夜を費やして焼き(中略)遺骨は骨壺に入れて地中に埋め、そこにココナッツの苗木などを植えます。場合によっては遺骨の一部を小さな仏塔のようなものに入れてお寺に安置したり、お寺の壁に埋め込んだりすることもあります。
(91)

二月八日(土)
在家者の修行と、出家者の修行は、二〇年ほど前までは区別され(中略)出家者は修行をしてニッパーナ(涅槃:パーリ語略)へ至る、あるいは阿羅漢の境地を目指していく。それに対して在家の人は、托鉢であるとか、寺への寄進だとか、そういうことでお布施をして徳を積んで、来世で幸せに生まれ変わる(以下略)(92)
上座寺院での瞑想の流れはタイやミャンマー国内のほか、欧米人の要望からとよく云はれるが、二十五年前にアメリカ長期出張のときに、サンフランシスコ郊外のタイ寺院に行ったら、在家向けの瞑想はやらず、専ら在住タイ人への対応のためだった。
ところが今では、在家の人を対象とした一週間ほどのリトリートを、一ヶ月に二回ぐらいは実施しており、一回に五〇人、一〇〇人、多い時には二〇〇人もが参加されます。特に私のお寺に来る人は医療従事者が多いです。
(94)
医師、看護師などが多いさうだ。プラユキが副僧院長だからといって、日本人が多い訳ではなく
日本からも、ぽつぽつとやって来られ、日本人は私が対応しています。
(94)


二月九日(日)
プラユキが出家したきっかけは、開発僧との出会ひだといふ。
その当時、私も開発関連のNGO活動を通して、アジアの国々のいろいろな問題に関わっていました。しかし、やればやるほど悩んだり、疲れたり、苦しんだり、(中略)ところが、開発僧たちは、非常に生き生きと、やり甲斐をもって(以下略)
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そしてルアンポーカムキアンを師匠として出家する。ルアンポー(ルアンは師、ポーは父親くらいの年齢者への尊称。兄くらいの年齢だとルアンピー、祖父くらいの年齢だとルアンプー)は
自然農法の普及にも関わっていました。「葉っぱを食べられても、虫への布施だからいいことだよ」
(97)
これは同感だ。農業は農薬と化学肥料を使ってはいけない。その代はり労働対価に見合った金額にすべきだ。また広大な農地を持つ移民国は公平な競争ではないから、輸入を制限すべきだ。それで経常収支が高くなる国は、相手国から工業製品や知的製品の輸入制限を受けるべきだ。だからルアンポーの第一は
「タンマ・クー・タマチャート」(中略)日本語に訳すと「ダンマというのは自然である」
(103)
次に
「プーペンとプーヘン」(中略)強いて訳せば「はまる人と観る人」(中略)「私はダメ人間だ」などと自己規定することによって、惨めな気持ちに陥ったり(中略)そういった罠に「はまる人」ではなくて、そういったからくりを「観る人」(中略)怒る人ではなくて、起りを観る人
(105)
(中略)の部分には自己同一化から自由の話があるが、この部分はタイに滞在する日本人比丘としての立場での発言なので、この部分を気にすると判りにくくなる。
三つ目は「ルー・スースー」(中略)「気合いを入れて力んで知ろうとするのではなく、自然のまま、あるがまま生じてくるものを、ただあるがままに知りなさい」
(107)
このあと、ルアンポーの師匠の「タム・レンレン」と手動瞑想が出てくる。「タム・レンレン」は「ルー・スースー」と同じことだが、日本語訳だと「遊び心」の語が入るので要注意だ。プラユキやルアンポーはきちんと真意を理解されてゐるが、いいかげんにやったりいい加減な説を広めてよいと勘違ひする日本人がゐるので気を付けないといけない。
手動瞑想は、その人の性格と信仰心に合ふときは有意義だが、NHKのテレビで放送されたからと真似をすると大変なことになる。信仰心のない状態で手を動かし修行したつもりになると危険だ。
「マイ・ペン・アライ・ガップ・アライ(カッコ内の別表現略)」(中略)「何もなく、何者でもない」(中略)全てが、自然の現象であり、自分のものなど一つとてありません。
(111)
ルアンポーは名僧だし、プラユキはタイで副僧院長を務める熱心な修行僧だ。唯一心配なのは、NHKなんかで紹介されたため、それにあやからうと対談したり、プラユキに日本での雑務を押し付ける人たちだ。プラユキにはいつまでもタイで無名の副僧院長として活動し、それを日本に発信してほしい。
プラユキはブッダの説く死に三種あると云ふ。まづブッダが臨終に際して残された「不放逸」について
サティ(Sati:気づき)を怠らないと いうことです。なんでもいいから盲目的にがんばりなさいということではありません。
(123)
これは卓見だ。次に死は四苦八苦に出てくる死、十二因縁に出てくる死、ダンマパダに出てくる死。一番目は判りやすいから省略し、二番目について
十二因縁は後に理論家されて三世に渡る輪廻の話(三世両重の印が)にされてしまいますが、もともとは、一瞬のうちに心が無意識裡に次々と京成構築化されていくプロセスを、ブッダが仔細な観察によって発見した教えです。
(126)
これも卓見だ。三番目は
不放逸の人々は死なない 放逸の人々は死んでいる
(128)
を引用し、機械的に反応する人は生命を持たないで死んでゐるといふ。これも卓見だ。(終)

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