千四百十六(その三) 新アジア仏教史03 インドⅢ「仏典からみた仏教世界」
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
二月二十九日(土)
この書籍は7章があり、それぞれ著者が異なる。このうち馬場紀寿さんの第2章「初期経典と実践」を中心に、岡田行弘さんの第4章「大乗きょあ店の世界」の一部と、コラム1つを取り上げたい。
馬場さんは
仏教は、XX教やイスラム教徒同様、個人によって始められながら国家や民族を超えて広範囲に伝わった創唱宗教である。
68
大乗の仏道は個人によって始められては居ないから、創唱宗教ではない。なぜ詳細なことに反論したかと云ふと、創唱宗教と言った途端、西洋学者の範疇に入ってしまふ。仏道にとって創唱宗教かどうかは、取り上げる価値がないくらい小さな問題だ。
アショーカ王は
「七種の法門」と呼ばれるいくつかの経典名を挙げ、おそらくそのうち(経典名略)は『増支部』に収録され、(経典名略)は『スッタニパータ』に収録され(以下略)
72
つまり『スッタニパータ』には、アショーカ王より遥か昔の経典を含む。それなのに馬場さんは、かつて三蔵に『スッタニパータ』を含む小部が含まれてゐなかったことを以って、中村さんの研究は正しくないやうな云ひ方を別の書籍ではするので、不信感を持たざるを得ない。
説一切有部を例に
仏典を拡大し続けた系統と仏典を閉ざしてしまった系統の両方が存在していたのである。たとえば(論書名略)は三蔵に収録されていないという理由で大乗経典を仏説ではないと批判しているから、仏典を三蔵で閉ざした系統が存在したことが推測される。しかし、説一切有部を全体で見た場合、五蔵を認める流れもあり(中略)仏典の増広に終止符を打たなかった。
79
よく上座部大寺派は三蔵で閉ざし、それ以外の部派は増広を続けたとする執筆があるが、上座部大寺派だけが閉ざすはずがないと予て思ってきた。そのことは正しいことが確認できた。しかもこれは説一切有部だけではなく
大衆部は三蔵に「雑集蔵」と「禁呪蔵」を加え、(中略)法蔵部は三蔵に「呪蔵」や「菩薩蔵」を加えて、五蔵を編纂していた。(中略)おそらく大乗経典も、こうした諸部派の経典制作という流れの中から発展したのだろう。
79
これは賛成だ。重要な部分を赤色にした。大乗仏道の誕生ではなく、大乗経典が瞑想資料或いは物語として誕生したと考へることが自然だ。一方で
スリランカには、大寺派とともに上座部に属した無畏山寺派や祇多林寺派が存在し、いずれも大乗経典を受容していた。七世紀前半にインドを周遊した玄奘がスリランカの仏教を「大乗上座部」と呼んでいる(以下略)
79
注目すべきは、インドやスリランカでは上座部から大乗までアナログ(連続)なのに対し、中国ではデジタル(二者択一)だ。だから両者の中間を大乗上座部と呼ぶことになる。上座と大乗の分流は、中国で発生したと推定できる。
七種の法門については先ほど述べたが、そのうちの五経について
成立は非常に古い。(中略)さらに、起源が古いと考えられる韻文経典として、ブッダの前世に関する物語である『本生(ジャータカ)』が挙げられる。
85
これも賛成。多くの人が、散文の註釈部分がジャータカだと勘違ひし、その理由は出版社が悪い。さて、せっかくここまで馬場さんに賛成なのに、このあと
韻文経典は(中略)四阿含のように律蔵をまとめた僧団によって編纂されたものではない。

律蔵をまとめた時期より、四阿含をまとめた時期ははるか後だ。律蔵と韻文経典をまとめた時期は近く、四阿含をまとめた時期ははるか後と考へるのが自然だ。
四阿含には韻文経典を批判する経典が収録されている。その経典は、将来、「如来によって説かれた、甚深であり、甚深な意味の、出世間的な、空に関する経典」が聞き学ばれず、ただ「詩人たちによって作られた、詩人の、(以下略)」が人気を博すことを予言し、そうならないように戒めている(括弧内略)
85
問題点を赤色にした。将来出てくると予言するのだから、既に存在する韻文ではない。詩人が造ると予言するのだから、ブッダが直接述べたと云ひ伝へられた韻文ではない。それではブッダは詩人になってしまふ。それなのに
四阿含の系統から韻文経典が快く思われていなかったこと、それゆえに、韻文経典が四阿含に収録されずに斥けられたことを推測できる(ヴィンテルニッツ 一九七八、六一頁)
85
四阿含の系統から韻文経典が快く思われていなかったとするのは、ヴィンテルニッツの独断であり、根拠がない。そんなものを信じる馬場さんには驚く。
ブッダの言葉として尊ばれてきたが、バラモン教が優勢だったときの発言なので、バラモン教改革と捉へられる。だから四阿含に収録されなかったとするのが自然だ。別の見方もある。ブッダの言葉として古来尊重されてきたから、わざわざ四阿含に入れる必要はなかった。
アショーカ王の碑文が両方に言及することから
両系統の起源は紀元前三世紀にまで遡る。
86
これは賛成だ。しかし馬場さんは直後に、韻文経典を
これまでの初期仏教研究では最古の経典として一づけ、四阿含をその後の時代の成立とする傾向が強すぎた(中村 元 一九九三・一九九四、荒牧則俊 一九九四、並川孝儀 二〇〇五)。
87
まだ括弧内を読まないので正確なことは云へないが、韻文経典を最古のものとするそれまでの中村さんの主張に賛成だ。その理由は、聞く人がバラモン教改革の立場と云ふ前提で法を説くことと、教義が複雑化する前だからだ。
比丘や信徒が既に多数存在するなら別だが、これからと云ふときに複雑な教義では出家者や信徒は増えない。とは云へ、上座部がこれまで受け継いだ教義は、貴重な伝統だ。その教義でこれまで続いたのだから、これからもその教義で続けることが存続の確率が一番高い。

三月一日(日)
この書籍は各章の直後にコラムがある。コラム3で、高崎直道さんが
大乗経典研究の変遷
154
と云ふコラムを書かれた。この題のほかにもう一つ題が付き、これが
大乗経典は仏説である
154
で、これがどうも頂けない。コラムは高崎直道さんを東京大学名誉教授と紹介するが、これ以外に駒澤大学助教授、曹洞宗静勝寺住職、鶴見大学教授、同学長。典型的な曹洞宗である。
日本では大乗仏道関係者のなかに、上座の悪口を云ふ人が一部だが存在する。そのやうな中で曹洞宗は上座の悪口を云ふ人がほとんどゐない。「大乗経典は仏説である」は上座の悪口ではないが、高崎直道さんが言ったとは思へない。二人の編集委員がコラムの副題まで口を出したとも思へない。出版は佼成出版社。真相はどうか。
さて、コラムの内容について感想が二つある。
仏の言葉で聞き漏らしもあろうし、仏が入滅前に言い残されたこともありうる。仏の悟りの内容は言葉には尽くせない。仏が敢えて秘めておかれた教え(密意)もある。--こういった理由付けで大乗は自説であると主張しているが、原則的にはこれは伝統を重んずる部派でも認められていたと考えられる。経典を「阿含(伝承)」と呼びながらその中に解釈(アビダルマ)を加えていることは近代の研究の結果で知られた。
156
不同意の部分を赤色にした。仏の入滅は八十歳だし、弟子への指導や説法の機会は無数にあった。言ひ残しはない。言葉に尽くせないものは何百年かの後に文章にできるはずがない。仏に密意はない。
部派で経典に解釈が含まれるやうに、大乗は経典に瞑想方法、物語を加へたとすれば、何の問題もない。
大乗非仏説の声は初期にこそ強かったが、部派の教団はやがてこれを「方広」として認め、律を守る限り、大乗の徒の共住を許したのではあるまいか。
157
大乗経典が瞑想法或いは物語なら、文章の種類は既知だから大乗非仏説とは思はない。また大乗の徒とする分類は存在しない。現在の上座で、マハーシやワットパクナムの瞑想をする比丘や在家を非上座と分類しないのと同じだ。
ここまで読んで、或いは「大乗経典は仏説である」を書いたのは高崎直道さんかと、考へが変はった。

次に岡田行弘さんの第4章「大乗経典の世界」。
阿含経典や律は、教団内で師が弟子に暗誦させて安定的に伝承され続けていた。しかし、新興の大乗経典はそのような方法をとることは困難であり、(中略)経典自体がその受持・読誦の意義を強調し、経典を弘通することが極めて大きな功徳を生むことを繰り返し説いている。
184
これは貴重な情報だ。インドでは上座と大乗が、二者択一ではなく連続すると先ほど書いたが、このやうな文章が経典に入ると、経典自身が神格化し独自の宗派となる。
バラモン教の伝統的な価値観が社会に広く定着したグプタ王朝のもとで、仏教はヒンドゥーの諸文化、とくに神話の神々だけでなく、鬼霊・樹木・動物崇拝といった土着の信仰を取り入れるようになった。その結果として経典も、儀礼的・呪術的な色彩が強まってくるのである。大乗経典には初期の段階からダーラニー(陀羅尼)やヴィドヤー(明呪)が含まれている。
194
疑問の部分を赤色にした。鬼霊・樹木の神は上座経典にも現れるし、これらは初期の仏道にもあったのではないか。
初期大乗仏教が成立し展開していく動きと伝統的なアビダルマ仏教が発達・深化する過程とは時期的に重なっていることを忘れてはならない。
196
これも貴重な情報だ。(終)

前、固定思想(二百三十九の二)へ 固定思想(二百四十)へ

メニューへ戻る 前へ 次へ