千三百九十五(その二) 日蓮信仰者が昭和四十五年以降、性格が悪くなった理由
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
十二月六日(金)
昭和四十五(1970)年に、日本国内の日蓮信仰者は性格が悪くなった。議論は、ここから始めなくてはいけない。なぜ昭和四十五年かと云へば、この年に創価学会が布教活動を停止した。
これだけだと影響は、創価学会と、同会が当時所属した旧本門宗大石寺派だけに留まる。しかし実際は日蓮関係のすべての団体に及んだ。
例へば日蓮宗では、片山日幹が宗務総長だった。戦争中に政府の指導で本門宗は日蓮宗と合同した。その旧本門宗の大本山北山本門寺の貫主が片山さんだった。元は大石寺と兄弟寺だったから、創価学会対策には最適の人物だった。
ところが創価学会が昭和四十五年に布教を停止すると、翌年に片山日幹は総長の座を追はれた。それくらい創価学会の布教と布教停止の影響は、各宗派に及んだ。

十二月七日(土)
ソフトバンクが大損失を出した。しかしWeWorkの再建は「時間が経てば解決」。孫正義さんはさう発表した。もし七百五十年後にまだ損失が続いたら、これは大問題になるだらう。それが日蓮系各団体だ。
日蓮滅後のさう遠くない時期に布教は完遂するだらう。(1)当時はさう考へた。(2)天文法華の乱の前までも、京都では日蓮法華系が広まった。(3)明治維新の後も、西洋列強がアジアに押し寄せ、これは元寇と状況が似るから国柱会など日蓮法華系が広まり、それは創価学会が布教を停止する昭和四十五(1970)年まで続いた。
多くの研究者は、国柱会など戦前の布教と、創価学会による戦後の布教を、別のものと捉へる。しかし(1)田中智学と北山本門寺の関係、(2)牧口常三郎は国柱会を訪問し、北山本門寺も訪問したと云ふ情報があり、(3)戦前の牧口の布教は戦後の戸田城聖による布教方法と同一で、戦前に人数が激増しそれで特高警察の弾圧に繋がったと云ふ情報がある。
三回の布教機会は失敗した。この現実を日蓮信仰者は無視してはいけない。これまで日蓮を嘘つきにしないための方法をずいぶん提案してきたので、義理は果たした。思へば北山本門寺系布教所の世話人(寺院の総代と同じ。私は日蓮宗の檀家総代に準じたこともあった)や、旧本門宗大石寺派から僧籍剥奪された正信会のお寺に参拝、同じく旧本門宗大石寺派から離脱した創価学会側のお寺に参拝、解散命令を受けた元妙信講へ試しに入会。
これだけ義理を果たしたのだから、これより昭和四十五年を起点に議論を進めたい。

十二月九日(月)
日蓮の時代は飢饉、疫病、元寇と続き、まさに末法だった。だから釈尊を嘘つきにしないために、法華経のみを信仰するやう主張した。異常事態への緊急発動だった。
室町時代は南北朝に始まり、関東では鎌倉公方と関東管領の内紛で戦乱が続き、最後は応仁の乱から戦国時代。室町時代に京都で法華系が増へたのは当然だった。
幕末に黒船が現れてから、日本は侵略の危機にあったから国柱会などが活動をしたのも当然だった。
翻って昭和四十五年以降は、日蓮法華系を国全体に広める勢ひはない。そもそも昭和三十九年の東京オリンピックの前年辺りから、日本は高度経済成長を遂げたから、今の世を末法と感じる人はほとんどゐなくなった。

十二月十日(火)
日蓮の目指すところは、国主による戒壇建立だ。当時だと幕府の御教書(みきょうしょ)と天子様の勅書、現代に当てはめれば国会の議決だった。つまり国会で議決できるまでの国民を信者にすることだった。だからと言って、信者以外が不利になる法律や憲法ではいけない。
ところが、いつのころからか国民すべてが信者になることだと言ふやうになった。例へば学僧として名高かった手塚貫道さんに神札を祭ってよい時期について質問したところ、国民すべてが信者になるときだと答へられた。創価学会も、昭和三十年代は国民すべてが信者になるのだから憲法違反ではないと主張した。
因みに古文書には、このとき建立する戒壇には、本尊の図の如く造像するとある。大石寺と創価学会が主張する「戒壇の御本尊」が後世の作であることを暗示するが、大石寺と創価学会の第二次宗創紛争で「河辺メモ」が出て、それを裏付けてしまった。

十二月十一日(水)
昭和四十年に「舎衛の三億」の故事を持ち出して信者数を国民の1/3に下げた。更にその後、大石寺の細井日達さんが、既に布教は完成したと言ひ出した。
創価学会と大石寺が、国立戒壇は田中智学が明治時代に言ひ始めたから大石寺も対抗して言ったとして、国立戒壇を取り下げたのは、何も問題がない。鎌倉時代から明治時代の初期まで云はなかった事だから。
私の母は昭和三十八年に入会したが、このときの経本が昨年まであった。大切な歴史文書だから引き出しに保存しておいたのだが、昨年八月に引っ越して、床に経本の破片が落ちてゐる。驚いたが、もういいやと捨てた。頭に記憶してあるからだ。
また創価学会が出て行った後の大石寺派は、もはや日本の宗教界で無視できる存在だ。身延を総本山とする日蓮宗が5200ヶ寺に対して、旧本門宗は250ヶ寺(八本山一覧表へ)。そのうち旧本門宗大石寺派は創価学会出現前に61、創価学会が寄進した寺が356。
昭和38年の経本は、初座に「天照大神(てんしょうだいじん)、正八幡大菩薩」があった。四座に「爾前迹門の謗法退治」があった。あと四座に「我等弘法の誠意大御本尊に達し」が入ってゐたが、これは恐らく昭和三十年頃まであった「天皇陛下護持妙法」の代はりだから一時的だ。五座は「当宗信仰」が「当門流信仰」だった。旧本門宗時代の名残りである。
それより注目すべきは、裏表紙に大石寺の行事と日にちの表があった。創価学会の出現で信徒数が増えて、入場整理券が無いと法要に参加できなくなったが、その前の雰囲気を残してゐた。

十二月十二日(木)
池袋の常在寺は、細井日達さんが大石寺の貫首になったあと、兄弟子の佐藤日成さんが後を継いだ。五座の観念文のあと、節の付いた文言を唱へ、これは心地が良かった。今でも一部のお寺ではさうだが、五座の観念文の後に、廻向する名前をすべて唱へる。これは時間が掛かるから、創価学会が出現して信者が増えた後は、多くのお寺でやらなくなった。これとは違ふ。
棟札もある。我が家は二階の天井裏に私が付け、これは矢島覚道さんに書いてもらった。覚道さんは日達さんが大石寺貫首になる前の弟子だ。常在寺で書いたのだらう。昔の僧侶は棟札を書くから、大石寺の貫首になってもすぐに本尊を書写することができた。覚道さんは正信会に所属したため、宗務院から顰斥(ひんせき、除名)になった。だから昭和三十年代のやうに、書くことができた。
昭和四十年以降、大石寺派から、心地よさが消失した。

十二月十八日(水)
田中智学は日蓮宗の僧侶を還俗し、その後日興門流の教義に出会ひ、日蓮佐渡以後の教義を今に伝へることに感嘆した。しかし、大石寺の教義は見た瞬間に駄目だと云った。その根拠は不明だが、恐らく戒壇本尊絶対説と貫首絶対説だらう。そして北山本門寺で講習会を開き、富士戒壇説に従ひ三保に最勝閣を築いた。
大石寺の戦後の特長は創価学会の出現で信徒数が激増したことだ。だから創価学会を切り離さず、戒壇本尊は一期一縁の本尊とし、貫首は重大局面での教義最終決定者とし、宗務行政は宗会で指名する宗務総監に任せるべきだった。
大石寺と創価学会の喧嘩別れの発端は、実に簡単な会話だった。池田大作さんが海外布教から戻り、大石寺の貫首(大石寺は法主を自称)へ報告しに行った。この当時、創価学会は正信会(宗内1/3の僧侶)を僧籍剥奪したお礼に200ヶ寺建立寄進を進めてゐた。その席で貫首が、新しいお寺が地方ばかりのため大都市にも建立するやう言った。それに対し池田さんが「さう云ふことは事務部門に任せて、対談はもっと高邁な内容を」と云ひ、自称法主が「法主の発言を封じた」と怒鳴った。
これだけのことが発端になり、バス会社(大富士開発)の副社長(富士急行から出向)が自殺したり、国鉄時代に建設された富士宮駅の団体専用ホーム、西富士宮駅方向に少し行ったところにある留置線7本と建物(清掃係員の控室と乗務員の休憩室)、品川駅の団体待合所が廃止され、多数の客車操車場(私の記憶だと品川と沼津以外の本州と九州)の団体用客車が廃車になった。大石寺の正本堂、大客殿、総坊が破壊され、大石寺周辺の食堂、土産物店、仏具店と、末寺周辺の仏具店が廃業した。

十二月二十八日(土)
昭和四十年辺りの聖教新聞だらうか、あのころは楽しかったと云ふときが来ると云ふ記事が載った。当時の布教活動が本音では大変だったことが行間から判る。昭和38年が布教のピークで、その後は入会者数が落ちた。そして昭和40年の舎衛の三億、昭和45年に布教活動停止と続く。
昭和50年頃の聖教新聞に池田大作さんが、今の人数でやって行く、入会して反乱を起こされたら大変だと発言した記事が載った。創価学会は布教のための団体で、布教が完成したときは解散すると、かつて戸田城聖さんは言ったから、このとき創価学会は存在意義を失った。そして第一次宗創紛争、第二次宗創紛争へと続く。
だからと言って創価学会だけが悪い訳ではない。当時は若かった池田さんをきちんと指導できなかった旧本門宗大石寺派は更に悪い。そればかりではない。日蓮の教義は非常事態に於る布教のための宗派だ。幕府の宗教統制が厳しかった時代には「時を待つべきのみ」とすることもあっただらう。これほど自由に布教できるのに完成できなかった日蓮法華系各宗派はすべて悪い。
だからと言って、完成のあてがないのに布教活動をする団体は更に悪い。(終)

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