一五一、二二年ぶりの正信会寺院参詣記(その四、早瀬総監と佐藤富士学林長)

二月十一日(金)「池袋の二つの寺院」
池袋に常在寺と法道院と二つの寺院がある。どちらもかつては多数の学会員が個人や組織で題目を唱へに集まつた。常在寺は昔ながらの落ち着いた木造建築で住職は終戦直後に宗務総監を務めこのころは富士学林長の佐藤日成師で昭和の名僧とも言へる方だつた。文京区の中等部も常在寺によく題目を唱えに行つた。夏休みは朝の勤行に参加した。都電では間に合わないので根津から自転車で行つた。佐藤師の導師の勤行はすがすがしかつた。昼間に常在寺が葬儀や結婚式で使へないときは近くの法道院に行つた。法道院は壁がベニヤの安作りだが、法道院の信徒は立派だつた。学会員が組織で来たときは題目を唱へたあとに本堂の後で打ち合わせをするが、あるとき「本堂で集会をしないでください」と二階の集会室に案内してくれた。
信徒が立派なのは、住職の早瀬日慈師の指導が行き届いてゐたためであろう。学会員が本堂で題目を唱へてゐるときに僧侶が仏前への献膳などで出仕することがあり、そのときは題目を止め僧侶が退席すると題目を再開する。しかし早瀬師は終つた後に多数の学会員に向かひ中断させたことを詫びるかのように「どうぞ題目をあげてください」と何回もお辞儀をしてから退席した。その腰の低さには好感を感じた。
柿沼総監が学会と宗門との或る事件で辞任し富士学林長に退いたのちは早瀬日慈師が十年以上総監を務めた。次の管長は早瀬師になつてほしいと私は期待したが細井日達管長が亡くなる一年前に総監を辞任し阿部師と交代した。なぜ交代したのか信徒の間でも話題になつた。私なんか「早瀬さんは穏健派だから活動僧侶を押へ切れないと創価学会が読んだんでしょ」と冷めた目で答へた。このとき正信会はまだなく活動僧侶と呼ばれてゐた。
早瀬師も阿部師も親学会派だつたが、早瀬師が温情的に親学会なのに対して、阿部師は「学会の組織を通して信心をするように」と聖教新聞で発言するなど、私は本行寺でご受戒を受けたが早瀬師とは別の印象を阿部師には持つた。

二月十二日(土)「昔の常在寺を探せ」
今年一月三日に正信会の寺院に行つた折に住職から、常在寺が今の位置に移転する前は三越の近くに在つたと言はれた。蕎麦屋が昔はあつたが今はあるかどうか、といふので早速探すと前の三越、今のLABI日本総本店の隣に富士そばがある。ここかと一旦は思つたが更によく調べるとLABIの富士そばとは反対側が元の所在地らしい。偶然といふことがある。私の所属する労働組合は分裂の後に池袋に移転した。組合事務所に行くときはLABIの横の元の常在寺の所を歩く。
もう一つ偶然がある。二十年前に池袋のコンピュータ専門学校で三年間教員を勤めたが、入学式や卒業式に国会議員の長田武志氏や都議会議員が来賓で来た。てつきり自民党だと思つてゐたが公明党だつた。もつとも専門学校の理事長は創価学会員ではない。私はすぐにわかつた。創価学会と共産党には悪い人はゐないと確信してゐたからだが、最近はかなり揺いだ。耐震偽装建築士の姉歯は創価学会員だし、池袋の豊島民商の職員が分裂前の労働組合にゐて、共産党員には変な人が多く自分が攻撃されると攻撃し返す、といふような話を聞いた。

それにしてもLABI総本店といふ店名はどうも間違へやすい。電気売り場の店員に「戒壇のご本尊は今どこに奉安してゐますか」と聞きそうになる。

二月十三日(日)「中野教会歓喜寮」
創価学会は最初は常在寺に所属しすぐに中野教会歓喜寮に転属した。だから池田大作氏のお守りご本尊には「中野教会信徒池田大作」と書かれてゐる。江戸時代に寺請け制度が始まると、にわか寺院が急増した。そして幕府は寺院新設を禁止しそれは明治政府に引き継がれた。だから戦前は寺院を新設するときは教会を名乗った。
初代住職は後に管長となる堀米日淳師、二代目は手塚寛道師である。
手塚師は日達管長のときに嫌気がさし住職を辞任し僧侶に在籍のまま自宅で青金社(おうきんしゃ)といふ出版事業を始めた。この当時は宗門の機関紙に広告を出していたから宗門に反乱したわけではない。しかし正信会の管長地位不存在訴訟に名を連ねたために正信会といつしょに僧籍剥奪になり、自宅を上妙寺と寺号公称した。

宗門側でもそうだが正信会の僧侶にも私生活で問題のあることがあり、正信会寺院を抜けて上妙寺に顔を出す信徒も多かつた。私生活問題については僧侶批判になるから宗門にも正信会にも触れない。私は僧侶批判はしないことにしてゐる。H氏との件は何かと言はれそうだがあれは論争である。だからH氏については他の僧侶から離婚騒動の話も聞いたが、そういふことには一切触れない。
手塚寛道師は天台宗の恵心流、檀那流の話が多かつた。だから難解で再び正信会寺院に戻る人も多かつた。

二月十四日(月)「中野支部文京地区部長」
あの正信会寺院は文京区小石川に住む年配の方が講頭として信徒をうまくまとめてゐた。寺の帰りによく車に乗せてもらつた。 講頭の名前をどうしても思ひ出せなかつたが、先日古い聖教新聞を見たときに国枝中野支部文京地区部長と載つてゐるのを見つけた。
当時上妙寺に出入りする人が数人ゐて私もその一人だつたので車の中で手塚寛道師のことを少し話題にすると「私は手塚先生とは懇意だつたのですよ」と答へられたことを思ひ出した。中野支部なら懇意にする筈である。あの数十年の厖大な聖教新聞の記事の中から偶然発見した。三国志で関羽の息子が森で迷ひ泊めてもらつた家に関羽の肖像が飾られてゐた古事を連想した。
偶然と言へば私の勤務する会社が中野教会の近くに移転した。四年前に私が労働組合騒ぎを起こして仕事を取り上げられた。午後に突然「明日から英文マニユアル翻訳をやつてもらふ。今日の残り時間は好きなことをしていい」といふから、これまでやつた分を引き継ぎのためまとめると言つたところ、そういふことはやらなくていい、といふので好きなことを本当にやろうと決意した。と言つてもやることがないので中野教会に行つて「以前野村光照師にお世話になりましたがここの住職の野村師とは兄弟ですか」と受付の僧侶に聞いた。「いや兄弟ではないけど親戚です」と笑ひながら答へられた。その後会社に戻つた。片道七分、話した時間が一分。好きなことをやろうと決意した割には十五分で完結した。

二月十五日(火)「池袋の妙典寺」
常在寺の隣に妙典寺といふ日蓮宗のお寺がある。本山は妙蓮寺で戦争中に日蓮宗と合併した。戦後は妙蓮寺と末寺が日蓮正宗に帰一するなかで唯一日蓮宗に留まつた。
数年前に墓地の三師塔を見てゐるとお寺のお婆さんが出てきたのでお話を伺つた。戦争中は忠正寺に疎開したそうで、このことから本門宗は連合組織で実態は各本山が独立してゐたことがわかる。たまたま忠正寺に縁があるとも考へられるがそう言ふ話の流れではなかつた。
本山妙蓮寺が日蓮正宗に帰一ののちに本山の漆畑日広師が何回か来られたそうである。隣の常在寺は細井宗務総監が住職を勤め、管長となつた後は元宗務総監の佐藤日成師が赴任し教学部長に重任したから、今だつたら宗務院役僧の隣の他宗寺院を正宗高僧が訪問、と騒がれるかも知れない。

日蓮正宗に帰一すれば多数の信徒が訪れ本堂は隣の常在寺のように立派になろう。それをせず門流を守る妙典寺は立派である。日蓮宗を離脱して立派な場合と日蓮正宗に行かず立派な場合がある。
参考資料(八本山一覧表)
本山名概略現況末寺数
大石寺日興が建立。日興が亡くなつた直後に後継日目も亡くなり日道と日郷が抗争本門宗から独立し日蓮正宗総本山。今は宗門、日蓮実宗、正信会、創価学会側寺院に分裂学会出現前は61
北山本門寺日興が建立。後継日代は後に追ひ出される大石寺独立の後は旧本門宗総本山。今は日蓮宗大本山日蓮宗36、正宗12(うち讃岐本山11)
西山本門寺北山を追ひ出された日代が建立戦後単立。後に日蓮正宗に所属するが裁判になり単立に戻る日蓮宗12、単立7
小泉久遠寺大石寺で抗争した日郷が一時居住。妙本寺の貫首が兼任することが多く両山一致の関係にあつた日蓮宗本山日蓮宗4
妙本寺日郷が建立戦後日蓮正宗に所属。創価学会分裂後に単立日蓮宗15、正宗5、単立6(うち4は休眠寺院)
要法寺京都に日尊が建立戦後日蓮本宗として独立日蓮宗34、日蓮本宗50
妙蓮寺南条時光の屋敷跡戦後は日蓮正宗本山日蓮宗1、正宗7
実成寺日尊が建立。日蓮宗本山日蓮宗4


二月十六日(水)「富士郡小泉村の妙円寺と東海道川崎宿の妙遠寺」
総本山の日目が亡くなつた後に、日道と日郷に後継争ひが起きた。近年になつて東坊地を巡る争ひだつたといふ説も出てきたが、寺を東西に二分したのだから後継争ひに違ひない。日郷はまず近くの小泉村の久遠寺に移つた。久遠寺は八本山の一つで近くに末寺の妙円寺がある。二十年前にこの妙円寺に行つた折に住職が、信徒が身延に参拝し身延の経本を買つてくるので困る、と言つてゐた。日蓮宗と合同しても富士門流の意識が強い僧侶も多い。日蓮宗内では興統法縁といふ組織を作り、特に北山本門寺は弟子もたくさん育成してゐると話されてゐた。
小泉村は昭和三十年に富士宮市と合併し、久遠寺の参道も元は農地に囲まれ背後の富士山とともに美しかつたのだろうがすつかり市街化した。
数年前に再訪すると大きな道路が二本出来て二十年前の跡形さへなかつた。更に驚いたのは妙円寺に身延参詣のポスターが貼られてゐた。住職の代が替はつたのであろう。そのまま本堂を外から眺めただけで富士宮駅に戻つた。
小泉といへば江戸時代に六郷用水と二箇領用水を掘つた小泉次大夫が有名である。工事の時は久遠寺とは貫首を兼任する房州保田の妙本寺から僧侶を呼び小杉陣屋町に妙泉寺を作つた。工事完了の後は川崎宿に移り妙遠寺になつた。跡地は戦後妙遠寺の墓地になり小堂がある。妙遠寺を訪問すると造像があり富士門流とは異なる。住職は先々代の孫で、しかし雑司が谷で修行したので興統法縁に誘わるが入つてはゐないとのことであつた。

二月十七日(木)「北山本門寺」
本門宗は昭和十六年に日蓮宗と合同し、その二年後に北山本門寺の住職が亡くなると次期住職の人選を日蓮宗に依頼し、身延系の片山日幹師が赴任した。片山師は日蓮宗の宗務総長を創価学会員が急増し公明党が結成された昭和三九年から創価学会が折伏大行進を停止する昭和四五年まで二期勤めた。まさに創価学会対策の最前線だつた。
三十年くらい前に北山本門寺の僧侶にお聞きしたところ片山師の勤行は一部読経で、つまり法華経全体を毎日順番に読経する。これは方便品と寿量品のみを唱へる日興門流とは異なる。妙円寺の住職は片山師を誉めすぎといふ気もした。

二月十八日(金)「日向の妙国寺と大日蓮宗」
本門宗の合同で一番被害を受けたのは房州保田の妙本寺の系統であろう。妙本寺と九州の日向本山定善寺は戦後、日蓮正宗に帰一した。この時点で末寺の半分は日蓮宗に残留した。
日向の妙国寺は庭園が有名で国指定名勝に指定され、JRの旧周遊指定地でもあつた。入り口の案内図に大きく「国鉄周遊指定地」と書かれてゐた。妙国寺も日蓮正宗に帰一したが一年で単立寺院になり二十五年前に日蓮宗に戻つた。二十年前に訪問したところ、日蓮正宗から直接日蓮宗に戻れないから一度単立になつたと言つてゐたが、単立になつたのは前住職の代、日蓮宗に戻つたのは現住職の代でここに理由がありそうである。

日蓮宗に残留した日向の半分の末寺は日蓮宗宗務院に対して日蓮正宗への反論を主張したが受け入れられず脱退して大日蓮宗を結成した。しかし三二年後に日蓮宗に戻つた。日蓮宗に戻つたときの日蓮宗新聞に、参列者は法要の方法が変わつたことに戸惑いながらも、といふ記事があつた。大日蓮宗は日蓮正宗に反対はしたが非日蓮宗を貫きそして日蓮宗に復帰といふ複雑な道を辿つたことになる。
創価学会の独立ののちに、妙本寺は近在の末寺2ケ寺とともに単立となつた。

二月十九日(土)「西山本門寺」
西山本門寺は戦後単立となつた。末寺の半分は日蓮宗に残つた。その後、由比日光師が門末に図らず日蓮正宗に合同した。死後に門弟と檀家が裁判を起こし、当時は敗訴確実と言はれたが勝訴した。
三十年前に訪問したところ日蓮正宗側の建てた鉄筋の建物は廃屋状態になつてゐた。日蓮正宗の建てた由比日光師の墓石は叩き壊し、遺弟たちが建て直した。
こうして西山本門寺は単立に復帰したものの末寺が行事に出仕しなくなつたそうだ。留守居の僧侶が嘆いてゐた。日蓮宗に残留した僧侶は、互いに何々上人と呼ぶことも批判してゐた。日興門流ではよほどの高僧しか上人を付けない。

創価学会青年部の幹部で民音職員だつた松本勝也氏が戒壇の本尊は偽物だとして昭和四二年に正本堂ご供養金返還裁判を起こし除名になつた。
その松本氏が大日蓮宗で出家し松本修明師となり、大日蓮宗の日蓮宗合同ののちは西山本門寺に移り、実家を寺院に、東京のマンションの一室を布教所にしてゐる。今は西山本門寺学頭を名乗つてゐる。二年前に訪問したが戒壇の本尊や二箇相承を巡り話が弾んだ。創価学会も過去の経緯は過去のものとして西山本門寺の復活に協力してほしいと思つた。


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