千三百九十三 プラユキ・ナラテボー、魚川裕司「悟らなくたって、いいじゃないか」
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己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
十二月十一日(水)
上座の仏道は、本家としての自覚があるため、大乗から批判されても反論することをしなかった。それをいいことに日本の一部の大乗系の人たちは、上座に対して出鱈目な批判をし放題だった。あまりにひどい場合は、私のホームページでは逆批判をしてきた。
しかしこれらより更に悪質なのが、上座の比丘と親しく写真に写ったり対談をしたり外国での修行経験を誇示する一方で、仏道とは別の説を唱へることだ。今回紹介する書籍の対談は、魚川さんが「佛教思想のゼロポイント」を出版した後に行はれ、この本も対談で何回か引用される。このまま放置すると、プラユキ・ナラテボーが「佛教思想のゼロポイント」を推薦したと誤解する人が出るので、対談の内容を考察することにした。プラはタイで比丘への尊称である。
世俗諦に対して真実諦と称される世界が、瞑想で判るやうになったかの質問に
魚川:自分なりに、一定の理解をすることはできました。ただ、そうすると困るのは、「この後どうするのか?」ということです。22
前半は問題ない。「自分なりに、一定の理解」と控へめだからだ。ところが後半で、この後に困ると云ふ。これで前半の控へめな表現が口先だけだと判る。まづ三宝に帰依しないで、困るほど判るやうにはならない。次に、判ったなら出家するのがよいし、在家として生活できるのであれば在家で仏道に貢献する方法もある。
自分を仏教徒ではないと言ってゐることについて
魚川:仏教から人生にとって必要なものを学ばせていただくことが私の意図ですから、文献学的な穿鑿(せんさく)をそれ自体として目的にすることはないし、ゴータマ・ブッダが言った(とされる)ことであれば全て正しいと、最初から前提にするようなこともありません。30
この文章には、問題点が三つある。魚川さんは、ブッダの言葉には人格が良くなるものと、それとはまったく別の涅槃を目指すものがあると云ふ。私は魚川さんと異なり、人格が良くなる事の先に涅槃を目指すとする立場だが、魚川さんの云ふ「仏教から人生にとって必要なもの」は、これまでの主張から、涅槃を目指すものと考へるべきだ。するとそれは、反社会と引きこもりになってしまふ。
二つ目は「文献学的な穿鑿を目的にすることはない」と云ふが、中村元さんが文献を研究したのも、それを私が手放しで称賛(晩年に上座を批判した僅かを除く)するのも、今後向かふ方向性を示せるからだ。一番よいのは昔からの方法を続けることだが、世の中の変化に合はせて改良が必要な場合もある。その場合に、中村さんの研究などで過去にどの方向に変化してきたかを示すことで、それとは逆を試せばブッダの方向に近づくと、有力な選択肢を示すことができる。
三つ目は「ゴータマ・ブッダが言った(とされる)こと」が全て正しいとすることはないといふが、それだと魚川さんの恣意の解釈になってしまふ。「言った(とされる)こと」が正しいかどうかは、今までの伝統に従ふか、古文書に従ふかで、二つの解釈法がある。
伝統に従ふと、それが長年の怠惰かも知れないし、権力など圧力の結果かも知れない。古文書に従ふと、原理主義になりがちだ。だから実際は両者の間になることが多いが、魚川さんは人生に必要なものと云ふのだから、これは恣意だ。

十二月十二日(木)
コーンフィールドさんがタイのアーチャン・チャーの指導を受けたときチャー師について
魚川:素晴らしいダルマ(仏法)の教師ではあったが、瞑想についてはあまり細かく教えてくれなかった。(中略)彼は瞑想上の経験に、そこまで興味がなかったのである」44
これは私にも当てはまる。経典や歴史に興味があっても、瞑想法には、無常、苦、無我が判ることが目的だ、程度である。
同じくコーンフィールドさんが
魚川:チャー師の寺では瞑想するのは一日に二時間から四時間程度で、それ以外の時間はコミュニティにおける生活の中で苦を手放す法の実践に充てられた。ところが、マハーシ・センターに行くと、一日に十時間から十八時間も瞑想をして、コミュニティにおける実践のようなものは皆無だった。46
これに対して
プラユキ:チャー師の指導はタイの森林派のお寺では普通のものですよ。タイ語ではタム・チット(心的実践)とタム・キット(作業的実践)と言うんだけど、これを両方バランスよく育てていく。禅寺の坐禅と作務の関係に近いんじゃないかな。47
私は一日に四時間が限度だ。出家者は読経、托鉢、コミュニティ、作業、学習、信徒への神通力の発揮、信徒への法話、信徒の相談の解決が必要だと考へるからタイに近い。信徒の相談への回答は、経典と注釈書が中心になる。

十二月十三日(金)
「仏教思想のゼロポイント」に「ここで瞑想しても人格はよくなりませんよ」と云はれたことを書いたことについて
魚川:ミャンマーの瞑想センターにも人格的に優れた僧侶や瞑想者の方々は、もちろんたくさんいらっしゃいます。むしろ、そちらのほうが多数派だと思いますね。46
あとから別の書籍に言っても遅い。「仏教思想のゼロポイント」を読んだ人が次にこの本を読むとは限らない。そもそも人格的に優れた僧侶が多数派なら、人格的に悪い僧侶は指摘をされ、矯正されるはずだ。
魚川さんが最初に瞑想センターを訪れた時に、何も云はないのに「ここで瞑想しても人格はよくなりませんよ」と云はれてしまった理由は、魚川さんは人格が悪いと見られてしまったためではないのか。
魚川:テーラワーダ僧侶の先生をお招きして、(中略)講義の後に「よかったです」と感想を言ったのですが(中略)「じゃあ、なんでいますぐにテーラワーダで出家しないんだ」と言われたそうです。97
長い間アメリカで教へた日本の大乗仏教僧の話とある。この場合に注意すべきは、テーラワーダ僧の発言を「それでは皆さん、テーラワーダで出家しませう」に変へたら、内容は同じでも印象が全然違ふ。誰もが熱心な僧だと思ふだらう。英語の発言は、魚川さんの書いた風にも、私が書いた風にも、どちらにも翻訳できるはずだ。突拍子もない翻訳で、読者に悪印象を与へてはいけない。
この場合に、講演会の参加者は、出家できない理由を答へればよい。そこから新たな会話が展開される。
魚川:(アメリカの瞑想会関係者は)「人生否定(life-negating)、来世志向(other-worldly)および二元論的(dualistic)な要素を持つ」東南アジアのテーラワーダと関係を持つことが大変難しいと考えたこと。こちらは、いま日本で(中略)あまり指摘されないことですが(以下略)112
人生は楽しいことが今の時代は特に多いが、これは地球温暖化と引き換へだ。それを考へなくても、人生には必ず苦もある。そのことに気付けば、六道輪廻を終はらせる事こそ、最高の道だと気付く。なほ涅槃の後に不死の人生があるかないかは無記だ。無常、苦、無我が涅槃の後まで有効かどうかも無記だ。
来世志向は、現世でのご利益を無視したものではない。しかし現世志向のみの宗教が、教祖その他の早死や教団分裂などで、最後は対立する団体の不幸を互いに宣伝し合ふ状態に陥ることは、よくあることだ。だから現世でのご利益を無視しない程度の来世志向は望ましいことだ。
二元論は、以上の二つで説明が十分だらう。
魚川:日本でも、日常会話で「前世」や「来世」について(中略)「まあそういうこともあるかもね」くらいの扱いですよ。(中略)でもミャンマーなどの上座部圏において(以下略)113
日本でも私の祖父母の年代までは、上座の国々と同じく輪廻転生を信じた。祖父母の年代は、肉をほとんど食べないなど江戸時代の影響もあった。輪廻転生を壊したのは、一つは明治維新後の神道だが、これはそれほど影響がない。戦後にマッカーサがキリスト教を布教しようとしたが、実際は唯物論になってしまった。これが大きい。

十二月十四日(土)
魚川さんが、ラベリングの問題点を述べたのに対し
プラユキ:効果を上げている人もたくさんいるから、それを否定するつもりはありません。ただ(中略)ラベリング瞑想をすることで身心の調子を崩してしまった方が、少なからず相談にいらしているのは事実です。139
プラユキ(プラは尊称)は、ラベリングすることでその感情がますます満ちることもあると分析する。長年の経験のあるプラユキがさうおっしゃるのだから、これは正しい。私はカウンセリングの経験が少ない(労働相談をやったことがある)から、単に無常、苦、無我の理解に繋がらないからだと考へるし、更には瞑想をすることが徳を積むことを知らないからだと考へる。

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労働相談のときに、精神を病んだ人もゐる。さういふ人とうまくやる方法は「総資本対総労働でやりませう」と励ます。これでうまく行く。瞑想のカウンセリングだと「瞑想をするとご利益があります」。これが一番いいと思ふ。
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プラユキ:定についてたしかにそれは智慧の前提だけども、私としては、これを集中(concentration)というふうには訳していなくて、「受容力」と訳しています。147
私は「安定」と訳してゐる。「定」を「安定」だなんて当たり前ではないか、と云はれさうだが、私はこれがいいと思ふ。おそらく性格が影響する。安定が重要な人は「安定」と訳す。
魚川:プラユキ先生を見ていてすごいと思うのは(中略)完全に病気の水準の人まで(中略)受け入れているでしょう。158
病気の水準の人まで受け入れると、カウンセラーの側まで変になることがある。先ほど述べた「瞑想をするとご利益があります」が一番いいと思ふが、プラユキは安らぎパワーの大きさで対応する。長年比丘をされる長老だからできることだ。
プラユキ:友人のKさんを紹介してくれたんですよ。(中略)「まず共感を築く」というプロセスを端折って(はしょって)しまったんですね。164
そしてKさんが落ち込んだと云ふ。友人だと油断するとかうなると云ふ、体験者でなければ語れないよい話だ。
プラユキ:慈悲の瞑想がわざとらしい、嫌ひだと云ふ人もゐると云ふ話にいや、時々やることもありますよ。やはりテーラワーダの正式な瞑想法ですし、一定の効果もありますので168
私は、慈悲の瞑想を二十五年間に一回か二回しかやったことがない。当たり前の話だからだ。自分の事ばかり気にする人には効果があるだらう。

十二月十五日(日)
プラユキ:自由について、世間では だいたい次の三つにまとめることができるでしょう。
一 外的な束縛、拘束、妨害、支配がない。
二 自分の意(思い、心)のままに振る舞える。
三 わがまま。勝手気まま。
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それに対し仏教では
プラユキ:先ほどの世間的な定義と対比する形で示してみますどねこんな感じになります。
一 内的な思考パターン、感情や記憶、心のクセ等に支配されていないこと(=「無執着」)が重要。
二 自分の意(思い、心)のままに振る舞うことは、必ずしも「自由」であるとみなされていない。
三 「わがまま、勝手気まま」であることは、煩悩(我)に支配されている「放逸」状態であるとみなす。
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ここまで大賛成だ。一方で、世間での定義とまったく異なるから、つまり「自由」の語を使ふ必要が無い。この書籍で気になるのは魚川さんが自分の訳したウ・ジョーチカ「自由への旅」を何回も(10回くらい?)言及することだ。題名を見て99%以上の人は世間の「自由」の意味にとる。魚川さんの欺瞞だ。(終)

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