千三百六十四 比丘は二段の神通力
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
九月十三日(金)
日本では、ミャンマーでせっかく比丘やサヤレーになったのに、帰国して上座を裏切る人たちがゐる。今回の特集を組んだのは、さうならないためだ。ここで裏切るとは、上座を批判したり、新たな瞑想法を始めたりする人たちだ。
ミャンマーで出家したが、健康や瞑想の困難などで還俗した場合は含まれない。帰国後に在家として仏道に貢献するから、これは尊い。今回批判するのは、上座を離れた人たちだ。
タイやミャンマーの人たちは、以下に述べることを誰もが知ってゐる。しかし日本人は知らない。上座の比丘は知ってゐると思って説法しないから、ポカリと穴が空く。そこを埋めるのが、今回の企画だ。

九月十四日(土)
比丘は戒を保つ。戒を保つと、在家に対する神通力を得る。これが一段目の神通力だ。在家への神通力は、前に書いたので、ここでは割愛する。
ここで大切なことは、出家者は戒律を保つことで、神通力を得る。上座の仏道が、日本の書籍で戒律仏教と呼ばれることがあるのも、これが理由だ。
日本の書籍だけではない。スリランカ、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアのどこかで上座が衰へたときは、別の国から戒を授けて貰ふことが、過去に何回もあった。この場合、教義や瞑想法ではなく、戒を授けて貰ふ。ここが大切だ。
事情は、日本の仏道も同じだった。正式の戒を受けるため、鑑真和尚には何回も難破など失敗しながら、日本に来て頂いた。このとき鑑真和尚は失明してゐたが、和尚と日本側の喜びは大変なものだっただらう。

九月十五日(日)
二段目の神通力は、戒定慧によって涅槃に達することだ。比丘には、経が得意な僧、説法が得意な僧、瞑想が得意な僧がゐるから、或いは涅槃を目指さない僧がゐるのかも知れない。かつては師弟の絆が強く、師匠の指導によりそれぞれ目指したが、今は全国試験が広まったから、試験結果で別の道を目指す比丘もゐるだらう。
或いは、かつては経を暗記して次世代に引き継ぐことは、比丘の大切な役割だった。経を暗記することを得意とする比丘もゐたはずだ。
日本の曹洞宗開祖道元の正法眼蔵に、読経や香は坐禅に役立たないと云ふものがある。唯一これだけ私は反対だ。道元はもう一つ
二三百年来のあひだ、大宋国に禅宗僧と称ずるともがら、おほくいはく、「在家の学道と出家の学道と、これ一等なり」といふ。これたゞ在家人の屎尿を飲食とせんがために狗子となれる類族なり。

と言ってゐるが、これは本来問題はない。今は僧が妻帯するため、この文書をそのまま解釈してはいけないだけだ。
上座も大乗も、比丘が読経や托鉢や説法することは、涅槃の役に立つと云ふのが、妥当ではないか。丁度、電力メーターや水道メーターが、使用量を累積するやうなものだ。
もう一つ別の考へ方もあり、涅槃の周りには幾層もの壁があり、これを中央まで突き破らないと、涅槃に達しないとするものだ。一箇所に集中するやり方だ。だから読経や香で、別の場所に少し穴を開けても役に立たない。しかしこの考へでも、因果の法則には従ふから、行なった行為が役立たない筈はない。

九月十六日(月)
仏道にとり、戒は神通の源泉だから、鑑真和尚など先人たちは大変な苦労をした。
上座では、釈尊の時代から今に至るまで新月と満月の日に、戒壇の中で布薩(ウポーサタ)を行ひ、戒に違反しなかったかを確認してきた。確認する内容は、瞑想が進んだか、経典の暗記、理解が進んだかではなく、戒に違反しなかったかであることに、我々はもっと注目すべきだ。
龍谷大学と浄土真宗本願寺派を一回批判したのも、川本さんの発言が戒の根幹に関はるからだ。パーリ経典の解釈や瞑想法に関してなら、龍谷大学と浄土真宗本願寺派を批判することはなかった。(終)

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