千二百三十二 僧侶の評価が二転、三転、四転した話
平成三十戊戌
十一月十七日(土)井上坐禅会
最近、僧侶の評価が二転、三転、四転することが連続したので、それを紹介したい。まづは成願寺で月に一回行はれる井上坐禅会だ。参加する前にインターネットで調べると、井上哲玄さんの東京坐禅会、東京中野坐禅会、カフェ寺の動画があり、これらの一部を観た。
私は昔から、僧侶が仏法以外の法話をすることが好きではない。賛成の人と反対の人が出てくるからだ。精神論も好きではない。頑張れと云ふ精神論ばかりではない。頑張らなくてもいいんだよと云ふ精神論も、裏付けがないと絵に描いた餅になってしまふ。
井上哲玄さんの法話は、どことなく頑張らなくていい精神論だ。だから井上坐禅会は出席を取りやめることにした。念のため、インターネットで調べると、成願寺の井上坐禅会は弟の井上寛道さんのほうだ。と云ふことで、井上坐禅会はつつがなく参加することができた。
念の為に、お兄さんの井上哲玄さんの中野サンプラザでの講演を聴くと、よい内容だ。なぜ今まで井上哲玄さんを高く評価しなかったのだらうと、不思議だった。そこで東京中野坐禅会とカフェ寺をもう一度聞いてみた。前者は録音が不鮮明でよく聞き取れない。後者は頑張らなくていい精神論だ。井上哲玄さんは、受は一瞬と云ふその話がすごくよい。その話ばかりをする訳にも行かないだらうが、受の話がよい。

十一月十七日(土)その二マハーカルナさん批判
井上坐禅会は土曜開催で、その翌日の日曜はマハーカルナさんのウポーサタ傳修会がある。前回の浅草公会堂での仏教トークとカティナ法要は悪くはなかったので、参加の予定だった。
出席の前にインターネットで法話を聴くと、根本分裂は、上座部、大衆部、分別説部の三つに別れ分別説部の後継がスリランカの大寺派つまり今の上座部、或いは上座部、大衆部に分裂し上座部の異端が大寺派だと云ふ。こんな悪口を云ふ人は、世界中の仏法界、仏法研究者にもほとんどゐない。これでは参加できないことになってしまった。
とは云へ、一般者が参加可能の仏教トークで、気になる題のときは参加するかも知れない。前々回の仏教トークは戒律仏教に堕してはいけない。これは悪い意味で気になる題だ。聴いてみたいが、聴いたら二度とマハーカルナさんの講演は聴かなくなると思ふ。

十一月十七日(土)その三三十七品菩提分法
井上坐禅会の提唱は三十七品菩提分法の3ページ目から4ページ目までだったので、そのときはよい内容だったと感じた。後日、三十七品菩提分法を全部読んで驚いた。1ページ目にまづ四念住が出てくる。前回の法話はその続きだった。このあと四神足、八正道などが出てきて合計が三十七になる。つまり原始仏法のこれらを曹洞宗式に解釈することで、悪く云へば曹洞宗式に改変だ。しかし大乗経典が後世に出現したことを道元が知る由が無いから、これは許容範囲だ。
後半に
二三百年来のあひだ、大宋国に禅宗僧と称ずるともがら、おほくいはく、「在家の学道と出家の学道と、これ一等なり」といふ。これたゞ在家人の屎尿を飲食とせんがために狗子となれる類族なり。

最初は、出家者は生涯独身で修行するから道元の主張も当然と思った。第二段階として、さうなると明治維新以降の妻帯僧の問題が出てくる。第三段階として、だからと言って数百年に亘る宋国の禅宗僧を、在家人の屎尿を飲食とせんがためは酷過ぎる。第四段階、正法眼蔵を読む対象を誰に想定して書かれたかを考慮すべきと思った。第五段階として、だからと言って在家人の屎尿を飲食は、表現が下品すぎる。第六段階として、曹洞宗は道元と瑩山を両尊とするから、道元は開祖でも宗祖でもない。両大本山の歴代と同格だ。弘法も筆の誤り、と同じで、道元も表現の誤りと曹洞宗に云へるか。
せっかく図書館で正法眼蔵の(1)から(4)までを借りたのだが、私の曹洞宗への熱意はかなり冷めてしまった。(終)

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