73、見沼代用水訪問記その3(西縁下流部の分水路)

平成十九年
五月二十三日(水)(蕨の謎の川)
昭和50年あたりまで、京浜東北線の蕨駅を浦和方面に過ぎると線路沿い右側に小川があった。平行する道路は車がほとんど走らず休日には道路に腰掛ける多数の釣り人がいてのどかな風景だった。この川が何だったかは気になっていたが、今回の探索で見沼代用水の分流であることが判った。


五月二十六日(土)(竪川と戸田用水)
竪川という川口市内の小さな川を上流に向かった。途中で緑川と交差する。更に上ると蕨駅付近で右側から合流がありすべての水量はこの右側から来る。上部に蓋をして駐輪場になってはいるがあの30年前の線路沿いの小川である。小川に沿い200mほど上流へ向かうと小川は右側に線路とは離れる。線路の反対側には日本車両の跡地に公団住宅が建っている。建設時に日本車両への引込み線跡に線路を再敷設し公団住宅の鉄骨やコンクリートを貨車で輸送した。引込み線に小さな鉄橋があり下は戸田用水である。今は水が流れていない。30年前のあの小川は線路を越すはずの戸田用水を竪川に短絡させたものだった。
戸田用水を右側に上っていくと見沼代用水西縁に至る。直径30cmくらいの小さな鉄製の蓋で分岐している。田に水を張る季節だからであろう。或る程度の分水がある。
一方、水のない竪川は線路を超え、戸田用水と交差する。昭和32年の地図では竪川は日本車両の裏側を上り新曾用水(新曽用水)の分流と直角で終わっている。雨天時の余水吐だろうか。


六月二日(土)(緑川と六ケ村用水)
竪川と交差する緑川は不思議な構造である。交差はするもののすべての水は竪川に取られる。緑川の下流部には浄化装置と親水歩道がある。親水歩道を過ぎると普通の川に戻るが直径15cmくらいの鉄管が突き出ているだけである。親水路の水が溜まると鉄管から放流し5分間隔くらいで断続的に流れる。
緑川の上流に目を向けると合流直前に大きな魚が10匹ほどいた。上流にどこまでも向かい前川小学校の横で川の横は歩行不能となる。落差が30cmほどある。ここが用水と川の境界のようである。この日はここで探索を終了した。


六月三日(日)(見沼代用水から六ケ村用水へ)
次の日は見沼代用水の分水口から下ることにした。昭和50年頃から10年ほど前まで合口二期の説明版があったところである。電動式の水門が付いた立派な取水口がある。六ケ村用水は途中何回か川と交差しながら終には昨日の前川小学校に至った。途中はすべて宅地化され田んぼは消滅していた。しかし離れたところにはまだ田んぼが残っているのかも知れない。辻用水から300m程度離れた場所で田んぼ内のマンホールを開けポンプで潅漑していた例もある。
参考資料(「見沼土地改良区史」昭和63年より)
潅漑地域について次のように書かれている。
  • 六ケ村用水
    旧六ケ町村(青木村前川・上青木・下青木・、横曾根村横曾根・飯塚・川口町)に潅漑
  • 戸田用水
    蕨・塚越(蕨市)・上戸田・下戸田(戸田市)等を潅漑
  • 蕨用水
    蕨の地を潅漑
  • 新曾用水
    新曾(戸田市)・蕨の地を潅漑
  • 辻用水
    文蔵・辻・根岸・白幡(以上浦和市)の地域を潅漑
  • 笹目用水
    下笹目・惣右衛門(戸田市)の地域を潅漑
昭和31年の定款には次のように書かれている。これらは見沼代用水土地改良区の直轄区間であり、その先に別の組合が管理する分水路がある。
  • 西縁用水路
    川口市大字小谷場元西福寺前分水口に至る
  • 六ケ村用水路
    川口市大字柳崎より分流し、川口市大字伊刈、川口市前川町四丁目入会前川分水路に至る
  • 戸田用水路
    川口市大字芝真光寺下分水口より北足立郡蕨町境に至る
  • 新曾用水路
    川口市大字小谷場元西福寺前分水口より蕨町旧国道に至る
  • 笹目用水路
    浦和市大字文蔵新曾用水路分水口より蕨町、浦和市入会旧国道に至る
  • 辻用水路
    川口市大字小谷場元西福寺前分水口より浦和市大字辻旧国道に至る
4月18日に開戸し9月20日に閉戸する。水量は昭和27年当時(単位は平方メートル/秒)。その他は昭和40年ころ(単位はメートル)
水路名水量上幅下幅水深延長
元圦樋管32.401----
東縁11.792----
西縁7.936----
六ケ村0.42610.07.00.61692
0.1744.02.50.51839
戸田0.6415.04.00.61600
新曾
笹目
0.5605.0
4.0
3.0
2.5
0.6
0.5
1755
645


六月四日(月)(笹目用水)
笹目用水は旧国道の手前からかなりの距離を排水路と平行に流れる。間に仕切りがあり合流することはなかった。今は旧国道の先で排水路に滝のように落水するようになった。この落差が用水路と排水路の標高差であり田圃に水を流す自然の動力でもあった。排水路はかつては線路付近から流れていたが、外郭環状道路が出来たため短縮され、今は文蔵(ぶぞう)川と名乗っている。


六月五日(火)(辻用水を逆流する謎の水)
田植え期には上流から流れていたがそれ以外は辻用水の線路脇で合流する謎の水路から元西福寺分水口まで逆流し西縁を下ってきた水と混ざり新曾用水を流れていた。この謎の水路は昭和32年の地図では線路を超え大谷場小学校の東で分岐し、1つは浦和第一女子高の南まで、もう一つは浦和駅東口通りの手前で終わっている。昭和50年ころ安定した水量と牛蛙が棲める水質を保っていたことから南浦和団地の処理水ではないだろうか。
もうひとつ、元西福寺分水口にも小さな水路が合流している。あるとき染料に染まった水が流れていたが水量は少ないのですぐに薄まっていた。地図によるとこの水路は短距離で終わっている。


六月六日(水)(下流部の現状)
六ケ村用水は田圃がとびとびで残っただけでしかもほとんど休耕。新曾用水は北戸田付近に田圃がある。笹目用水はほとんどないが、新曾用水の下流が川につながっていないため整理調整として利用されている。辻用水は線路から下流は六辻(むつじ)水辺公園となり市からの要請で水を流している。


六月九日(土)(六辻交差点の謎)
親水公園は国道17号と交差する手前で暗渠となる。親水公園ができる以前から暗渠であった。国道17号を過ぎると再び地表に現れる。旧中仙道を過ぎると再度地下に隠れる。ここからは二層となり地表はろ過水を用いた水遊び用の公園となる。旧中仙道までが見沼代用水土地改良区、ここから下流は別の組合または市が管理していたため大きな変更が可能だったのであろう。地下の水路は釣堀池の跡で大きく左折し中央排水路に落下する。
最初に暗渠となった地点に戻り、ここからは別の水路が六辻交番を経て400mくらい伸びていた。今から10年くらい前まで水は流れていないが水路は残っていた。両者は一度合流ののち別方向に別れ、北側の水路は中央排水路と別所排水路を超え荒川方面に伸びている。南側は先ほどの二層式である。地図にはここに池がある。15年ほど前までは釣堀を営業していたが今は埋め立てられた。


六月十日(日)(緑川と竪川)
今回の分水路探索は5月3日から6日まで行ったが、偶々その4日後に埼玉県が芝川の水を六ケ村用水1.5km経由で緑川に放流する事業を始めた。緑川1.5kmとその下流の竪川を浄化しようというのである。見沼代用水の水が流れなくなる冬季にこれまでは試験送水を土地改良区に依頼していたが、今後は送水せず芝川の水を使うそうである。(県庁河川砂防課)
緑川と竪川の関係について、「又聞きだが昔は緑川が下をくぐっていて、そののち竪川が緑川に合流するようになり竪川の下流は排水しか流れなくなったため浄化装置はそれと同じにした」(県土整備事務所)。
昭和32年の地図では竪川は野川と名乗っている。緑川は農業用水である。野川が下をくぐっている。この付近には多数の池があった。


六月十五日(金)(石油消費に終止符を)
昭和48年には西縁の両側は田圃が果てしなく続いていた。昭和58年に訪れたところ下流に向かい右側はぎっしりと住宅が並び、左側の見沼田圃だけが残されていた。
都市は人間の心を荒廃させる。あのころは夜になると住宅地に小さなこうもりが飛んできたが今は絶滅したのであろう。石油の消費を止めれば多くのエネルギーは植物から得ることになる。農業は復権する。石油消費に早く終止符を打つべきである。


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変はりゆく浦和の四十年
正仮名遣いを使おう「見沼代用水訪問記」その2
正仮名遣いを使おう「見沼代用水訪問記」