52、正仮名遣ひを使はう「見沼代用水訪問記」

平成十八年


日本語は戦後、言語の活性を失つてしまつたやうである。醜い表現を阻止する免疫機能も失つてしまつたやうである。此等の元凶は新仮名遣ひにある。
終戦後の新仮名遣ひと云ひ今回の女系ニセ天皇と云ひ戦後の幕府は前代未聞の事を行ふ。江戸幕府は武力で作られたから限度を弁へていた。戦後の幕府は選挙で選ぶから何でも出来ると勘違ひしてゐる。戦後の幕府もマツカーサーが武力で作つたものなのだが。
今年元日の初歩きは見沼代用水である。訪問記を正仮名遣ひを用ゐて作成してみた。


一月一日
国道十七号の戸田橋を渡り半里ほど歩くと右に旧中山道が分岐する。旧道を進み蕨宿を超え外環道路を過ぎると見沼代用水といふ農業用水と交叉する。
交叉地点の一町ほど手前に辻熊野権現がある。此の権現は其の神仏習合に因り明治初期に廃社となつたが大正二年復活し平成十六年改築し其れまで合祠されてゐた五体の仏像を近くの寺院に納めたと説明版にある。
敷地内に公会堂が併設されてゐる。公会堂とは住民が集ふ集会所で、民家二軒の広さである。今から十年程前に公会堂で近郷住民三十名ほどが念仏を唱へながら長い数珠を順送りしてゐるを見た。合祠の後も続いてゐるのだらうか。貴重な神仏習合の遺産である。


一月二日
此の辺りは昭和四十年代に宅地化されたが、見沼代用水は田植ゑの季節には大量の流れがあり、それ以外の季節にも多少の流れがあつた。其の為夏には食用かへるの鳴きごゑが聞えた。上流に向ひ歩を進めると東北本線の線路に至る。此処には分水路があり田植ゑの季節には上流からの大量の水が下流と分水路に流れ、其の他の季節は分水路を逆流してきた水が下流及び上流に向ひて流れた。つまり厳密に云へば田植ゑの時季を除いては見沼代用水の水ではなかつた。しかしかへるが棲めるので汚濁してゐる訳でもなかった。


一月三日
今では此処から下流が親水公園となり流れが途絶えた。公園終端の路上に金属製の三尺程の柵があり中に土嚢が置かれ親水公園となつた後も土嚢までは水が来てゐたが元日は水がなかった。今まで歩いてきた水路は正しくは辻用水路と云ふ。見沼代用水西縁から分流することなく辿り着く最終の水路である。


一月四日
近くを走る外環道路の陸橋を登りて線路を越えると新曾用水路という別の水路が現れる。此れに沿ひ上流へ向ふと先程の辻用水との分流地点に至る。田植ゑ以外の季節に辻用水を逆流した水は上流からの水と合はせてこの新曾用水を流れてゐた。
見沼土地改良区の規則では此処が西縁用水路の終点である。西縁用水を上流に一里歩くと六ケ所村用水路を分流する機械式の水門がある。三十年前に立てられた合口二期事業と云ふ説明板があつたのだが三年前には剥げてほとんど読めず今年正月にに撤去されてゐた。十年前までは此処が年間を通して水路らしき水量があつた最終地点であつた。元日にはまつたく流れてゐなかつた。正月休みかもしれぬ。


一月七日
上流に歩くと見沼通船堀がある。更に二里ほど上流に向ふと高層ビル群が現れる。国鉄大宮操車場の跡地である。高層ビルを横目に先へ進むと水資源開発公団の天沼揚水機場が現れる。ここから先は用水路には豊かな水が流れてゐる。合口二期事業として見沼代用水の水を東京埼玉の水道用水に転用する施設である。


一月八日
見沼代用水の取水口は江戸時代に作られた。此れを武蔵導水路や埼玉用水とまとめ利根大堰から取水する事業が合口一期、其の後の都市圏の拡大に因り見沼代用水を三面コンクリート化し節約した水を天沼揚水場で水道に転用する事業が合口二期である。コンクリート化により用水周辺は古来の植物が消え帰化植物になつた。
見沼代用水は上流で西縁と東縁に別れる。双方の水路に挟まれた土地を見沼田圃と呼び開発が規制されてゐて今でも自然が広がる。昭和五十年には用水の内も外も一面の田圃で区別がつかなかつた。それが数年後には外に宅地が建ち始め今では見沼田圃だけが取り残されてしまつた。


一月九日
見沼改良区は農家が支払ふ料金により運営されてゐる。昭和三十九年には都市化により足立区の総代を十人から九人に減員した。昭和四十三年には足立区、川口、浦和、草加の都市化で総代を更に六人減員している。
江戸時代には見沼の干拓を巡る上流地域と下流地域の対立、日照りのときは村ごとの水争ひなど 見沼代用水には数々の歴史が刻まれてゐる。それらが都市化とともに捨て去られて行く。同時に地方の人口は減少し疲弊した。民主主義とは国民が国の運営に責任を持つ事であるが多人数で好き勝手な事をしてゐれば善い、経済さへ発展すれば善いと勘違ひし人口問題を放置してきた。今後人口減少期に当りすべきは地方の人口を減少させず都市部の人口を減少させることである。


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