千二百三十四 3.見沼代用水西縁と文蔵川
平成三十戊戌
十一月二十四日(土)廃業した銭湯と、見沼代用水西縁で土嚢撤去
かつて文蔵にはもう一つ、銭湯があった。場所はどこだったのだらうと、時間のあるときに歩いてみた。しかし判らなかった。
帰りに見沼代用水西縁辻用水の大境橋で土嚢の撤去作業に出会った。クレーンを積んだトラックが橋の先に停車し、クレーンに吊るした袋に橋の下から土嚢を取り出し撤去した。水が下流に向かってゆっくりと流れだした。暫く見てゐたので下流に向かって歩いても流れは続く。かなり走って流れの最先端にたどり着いた。最初は汚い水だ。暫くすると後からきれいな水が続く。空が暗くなったので、明日の朝に清流を見よう。さう期待して家に帰った。

十一月二十五日(日)翌朝は流れが止まった見沼代用水
翌朝、清流を期待して見沼代用水を見て驚いた。流れが止まってゐる。どうやら大境橋の上流に溜まった水が流れただけのやうだ。東北線の線路まで歩いてみると、昨日最後に見た地点は汚い水、その上流はきれいな水だが、途中に三箇所くらい汚い水があった。家庭排水が流れるところがあるやうだ。
かつて見沼代用水西縁辻用水は、水が途切れることがなかった。普段は上流から流れる利根川の水はすべて川口市小谷場元の元西福寺前分水口より新曾用水に流れた。東北線の線路を少し北に行ったところに、もう一つ水が流れて、これが暗渠と地上に分岐し、地上が辻用水に流れるとともに辻用水を上流に逆行し新曾用水にも流れた。
田植への季節になると、見沼代用水を大量の水が流れて、元西福寺前分水口から辻用水にも流れた。つまり、普段も田植への季節も水が途切れることはなく、夏になると、牛蛙のボーボーと啼く声と、近付くと水に飛び込む音が、風物詩だった。
その後、東北線の線路を少し北の謎の水流からの連絡水路が廃止になった。元の合流部分に土嚢を一重に積んで雨のとき以外は水が流れなくなった。更に数年後はここから下流が浦和市立のせせらぎ緑道になるとともに、土嚢が地下の止水版(があると思ふ。上部が網だが目が細かくて仲が見えない)に替はったため、二度と水が流れなくなった。
今回一時的に清流が復活し、しかしところどころ汚い水が点在し、清流部分の深いところには鯉がゐる。魚を取らないでくださいと書かれたさいたま市の掲示が空しい。

十一月二十八日(水)大蔵湯
記憶では田圃の中だったから、外環道路の先まで行き老婆二人に尋ねたところ、そこの先に昔あったと云ふ。田圃か水たまりの先でしたね、と云ふと怪訝さうな顔をするが、取りあへず行ったところ、そこは蕨高校の近くだ。行き過ぎたので、その日は戻った。
見沼代用水の北側の暗渠も歩いてみた。下流は外環道路の外側歩道下を流れる。流れるとは言っても水音が聴こへず空堀のやうだ。
図書館で昔の地図を調べて判った。銭湯は大蔵湯で、文蔵薬師堂の少し先だ。なるほどこんな近くまで田圃だったのだと感慨を覚えた。更に見沼代用水西縁への助水となる謎の水流は文蔵川であることが判った。

十一月三十日(金)文蔵川
文蔵川は、浦和と蕨の市境の近くにある。当時は昭和五十四(1979)年に建築された高層マンションがポツンと一つだけあり周囲は民家で、その近くを川が流れた。この川を遡ると何と謎の水流に繋がる。
私はてっきり、謎の水流が東北線の下をくぐると、助水と地下下水道に分流すると思ってきた。しかし東北線の線路際から暗渠に沿って歩くと、外環道路の外側歩道に繋がり、国道十七号との交差点手前で消滅する。
消滅ののちに外環道路の内側に廻ると、文蔵川が現れる。昭和五十年代は文蔵川は水が流れてゐた。今は流れが無い。あの流れは、南浦和団地の下水処理場のものに違ひない。南浦和団地が荒川左岸流域下水道と接続し、流れがなくなったのだらう。
インターネットで検索すると、川が好きな人はゐて、見沼代用水西縁の新曾用水路或いは笹目用水路を文蔵川上流としてゐる。これは間違ひだ。田圃地帯には、用水路と排水路がある。文蔵川は排水路だ。
そのことに気付いたのは、見沼代用水の西縁と東縁の中間を、芝川が流れる。芝川は見沼中悪水とも呼ばれるので気付いた。見沼用水と中悪水を結ぶ通船堀を、皇太子様がご見学されたのは今から十五年くらい前だらうか。
悪水は汚水ではない。土地の傾斜が急な地域では、上流の田圃の排水を、下流の田圃の用水に用ゐた。見沼の流域は傾斜が緩いので、江戸時代までは電力がなく排水は二度と使用できなかった。これを悪水と呼んだ。(終)

メニューへ戻る (その一)へ 次へ