千二百六十四 二つの分けるもの(1.上座と大乗、2.右翼と左翼)
平成三十一己亥年
一月二十六日(土)
上座の仏道と、大乗の仏道を分けるものは何だらうか。ブッダの時代は、瞑想が修行法の主流だった。後に拝むことが主流になった。拝むことが主流の時代に合はせたものが大乗の仏道になった。これが上座と大乗を分ける根本だ。
右翼と左翼を分けるものは何だらうか。一人で行動するのが右翼、多人数で行動するのが左翼。この定義が一番よいやうに思ふ。
しかし二つの定義はいづれも現代の、しかも日本での定義だ。時と場所が異なれば、別の定義が出てくる。例へば米ソ冷戦の終結前なら、ソ連への親密度によって左翼と右翼が定義された。

二月一日(金)
ブッダの時代は、バラモン教がありこれは祈りの宗教だった。とは云へ動物を生け贄にするなど、人類の知能がそれほど洗練される前ではあったが。
だからブッダの時代は瞑想の時代で、その後に拝む時代が来たとすることに疑問を持つ人もゐよう。バラモン教は洗練されず、しかもそれが堕落した宗教、仏教は革新の宗教とすることもできるが、それだと大乗は洗練されない宗教になってしまふ。
それを防ぐため、瞑想の時代と拝む時代とすれば、大乗だけではなく、ヒンドゥー、キリスト教、イスラム教、儒教道教神道。みんなが平和だ。

二月二日(土)
現代の日本人は、鎌倉仏法を以て大乗だと思ってゐるが、大乗とは戒と修行を保つとともに、大乗経典を信じることだ。
だから、拝むことが大乗だと短絡してはいけない。それは鎌倉仏法の特徴ではあっても、大乗の特徴ではない。
仏を師匠とするのか、拝む対象とするのかの違ひが、上座と大乗を分けると云ふことはできる。とは云へ、ブッダを拝む対象にすることは、さすがにはばかられる。そこで大乗では諸仏が現れた。

二月九日(土)
仏を師匠とは、軽く扱ひすぎないかと云ふ批判もあらう。まづスマナサーラ長老が同じことを言ってゐるから間違ひではない。
次に師匠とは、例を挙げれば車の運転の仕方を教へてくださってしかも車が用意してある。大乗の仏道では、車に阿弥陀仏や諸仏が運転席に乗ってゐる。どちらも涅槃に行けるではないか。
上座は自力、大乗は他力とする人もゐる。しかし方法を教へてもらった自力は、容易に涅槃に行ける。他力で礼拝や読経、更に鎌倉以前の仏道では瞑想を行ふ。これは自力と変はらないではないか。

二月十一日(月)
右翼と左翼の話題に戻ると、冒頭に書いたやうに、一人で行動するのが右翼、多人数で行動するのが左翼。これが一番よい定義だ。多人数で行動すると、それぞれの構成員の共通項だけが残る。冷戦時代ならこれでもよかった。ところが冷戦が終結すると、共通項が無くなった。するとそれぞれの利害に関係のないものが残る。それは国民の意識とかけ離れたものだ。良く云へばエリート主義、悪く云へば西洋猿真似。だから国民から見放される。(終)

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