千二百五十九 ミャンマー経典学習会(受に関する随観)
平成三十一己亥年
一月十四日(月)
昨日のミャンマー経典学習会は、私のメモ書きによると、次のお話があった。ただしこの辺りは私の苦手な部分で、しかも最初エアコンの熱風で居眠りが出たため、まったく判らないのにメモを取り、間違ひが多いかも知れない。
1.心と感触
2.受
3.感情
色受想志識 経によっては色受想行識
蝕が合ふ人はそれに注目。蝕ではなく受でやる人はそれが中心だが、他も起ってゐる。
知らないことと渇愛-->五蘊
ここから先は、判ってメモを取った。
瞑想をやってゐるだけだと、知恵を得られない得られないかも知れない。その次は無常、苦、無我が判るやうになる。更に続けると、志があれば容易に阿羅漢になれる。
阿羅漢になれる人でも天候、人物(先生)、食事、先生の指示どほり修行できる知恵、の四つが必要。
一日一回で阿羅漢になれないことはない。そのためヴィパサナは輪廻から逃れるのに必要と判ってゐなくてはいけない。
受はお経によって七つ、五つなどあるが、ここでは三つ。楽の受は、例へば水を飲みたいときに飲めた。苦の受は、例へば心と体が苦しんでゐるとき口に出すと、周りの人にも与えてしまふなど。楽でも苦でもない受を感じるのは難しく、ほとんどない。第一禅定で感じた楽が、上に行くと楽でも苦でもない受を感じる。鹿を追ふ人が、行けない場所への鹿の足跡を見たときの感情。
煩悩から出た受(美味しいなど)を楽しんでゐると、煩悩から逃れられない。感じるべき楽の受は、無常を判ることで得られる楽の受。ヴィパサナの瞑想をするとき、第一禅定で感じる楽も感じるべき受。第二禅定の楽の受は更によく、第三、第四も更によい。
しかし感じるべき楽の受で満足してはいけない。第四禅定で一旦止めてヴィパサナをすべきだ、体がないと得られないので。心と体だけあり、我はない。それをヴィパサナで得られる。
以上の、貴重なお話があった。今回は「受に関する随観」で、お経の要旨は
どのやうに受において受を随観し続けるのか。楽の受を感じれば楽の受を感じたと知り、苦の受、苦でも楽でもない受もそれぞれ知り、欲、無欲に関する楽の受、苦の受もそれぞれ知る。
今回前半で理解不能に陥ったのは、自分の立ち位置を見失ったためだった。お経の解説だと判れば、理解ができた。
一月十五日(火)
質問の時間で、何件か質問が出たあと、サヤドーが私を指名したが、前半理解不能の部分があったので質問がない。最初は辞退したが、暫くして、小部がブッダゴーサの時代に経蔵に加へられたことを質問した。サヤドーからは
第六結集のときに、経蔵に組み込まないミスをしたのでは。例として、ウィタムラとマハナンの話は、風呂に入るのが嫌で自殺したが、仏法で自殺することはあり得ないからブッダの説以外が組み込まれたのだらう。
との回答があった。上座仏道の比丘は、三蔵に異議を感じてはいけないのかと思ったが、そのやうなことはなく、自由に議論できることが判り、有意義だった。
次の人が、禅定とサマディの違ひについて質問し
禅定にサマディがある、サマディは禅定の前にもある。しかしレベルが違ふ。カニカサマディ、ヴィパサラサマディ、禅定のサマディ(第二、第三と強くなる)
以上のお話があった。
一月十五日(火)その二
茶話会は、一年ぶりだらうかお茶とお菓子、果物で過ごした。今回は通訳さんを除いてミャンマー人がゐなかった。
僧の髪型の方から、ミャンマーに行き在家として一週間瞑想に参加した話があった。知人の日本人比丘のお寺で瞑想しようとしたところ別のお寺に移ったため、そのお寺に行きインタビューのときは知人に通訳して頂き、托鉢のときは在家として後に従ひビニールの袋を持ったさうだ。
一週間だと儀式が面倒なので、出家(沙弥)は一か月以上と云ふ話だった。しかしそのお寺は比丘が三人ほどなので、出家儀式は行へない。
出家は人生の一大事とも云ふべき重要な事項だが、瞑想に参加することは日常の事項だ。だから出家の結果として瞑想をすべきで、瞑想のため一時出家することは果たしてブッダの時代の伝統に合ってゐるのか疑問だったが、一週間なら在家として瞑想はよいことだ。(終)
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