百十、アジアではなぜ社会民社主義は共産主義に劣るのか

今回から縦書きにしました。しかし縦で表示されるのはIEのみでFireFoxではうまく表示できないでいます。
九月十五日(火)「アジアの社会民主主義」
西欧では社会民主主義政党が或るときは政権を担い、或るときは野党となっている。そして東欧の共産主義国家は崩壊した。
一方のアジアでは社会民主主義はまったく振るわず、それでいて共産主義国家は健在である。この違いはどこにあるかを考えてみよう。

九月十六日(水)「人間は欲が深く堕落し易い」
人間は欲が深く堕落し易い。そのことをアジアは知っている。一方で西洋人は、人間は地上の主権者だとばかりに振る舞う。その違いが社会民主主義と共産主義の優劣を決めている。
人間がいかに欲深く堕落し易いかは北朝鮮がよく示している。共産主義国家なのに世襲制に堕落した。しかもあの一族はぜいたく品を輸入したり日本の東京ディズニーランドに密入国したり国民の貧困には目をつぶりやりたい放題である。


九月十七日(木)「衆生本来仏なり」
衆生本来仏なり
水と氷の如くにて
水を離れて氷なく
衆生の外に仏なし

これは白隠の和讃で広く知られている。では次はどうだろうか。

衆生本来悪魔なり
お湯と蒸気の如くにて
お湯を離れて蒸気なく
衆生の外に悪魔なし

実は白隠と同じことをいっている。衆生が「本来」仏だということは現実には仏ではない。衆生が「本来」悪魔だということは現実には仏の振る舞いをする。だから白隠も後半では次のように述べている。

一坐の功を成す人も
積みし無量の罪ほろぶ

人間は無量の罪を背負っている。その罪をどう滅ぼすか。ここに共産主義と社会民主主義の違いがある。


九月十八日(金)「プロレタリア独裁」
プロレタリアートが政権を決める。何とすばらしいことだろうか。アジアではマルクスとは異なり労働の神聖化という意味にプロレタリア独裁を解釈した。だからベトナムやラオスはアメリカに勝利したし、日本でも社共共闘の知事や市長が大都市に次々と誕生した。
人間は堕落する。だから労働の神聖化はいい方法である。しかし現在は化石燃料の消費で生活しているから先進国にはプロレタリアートはいない。そしてたとえ化石燃料の消費を止めたとしてもうまくいかない理由がある。


九月十九日(土)「プロレタリア独裁を成功させる方法」
プロレタリアートにのみ選挙権を与えてもうまくはいかない。選ばれた人たちは職業幹部だからである。またプロレタリアートも「もっと贅沢がしたい。金正日一族ほどではなくてもうまいものを食いたい」と考えるから、ますますうまくいかない。
ここにプロレタリアート独裁を成功させる方法がある。政権幹部は1日のうち半分以上を労働に従事し残りで政権活動や政党活動をすべきである。政権活動や政党活動に従事した分の収入は本来の労働より少なくすべきである。これと同じことをアジアの宗教は実践している。


九月二十日(日)「戒律のある思想」
仏教では大乗仏教も僧侶非妻帯などの戒律を守る。ヒンドゥー教にも戒律はあるし、イスラム教ではラマダンの断食をするし、カトリックの神父は妻帯しない。ラマダンの断食は日本人が考える以上に影響が大きく、インドネシアに出張した人は「ラマダンになると皆殺気だつ」というほどである。もっとも非教徒の日本人がたらふく食ってインドネシア人と接するから、嫌がられるのかも知れないが。
戒律があっても堕落することはある。しかし戒律がなければその百倍は堕落する。だから宗教に戒律は必要である。
労働を神聖視しプロレタリアートの独裁を謳う共産主義がアジアに受け入れられたのも当然であった。


九月二十一日(月)「資本主義」
資本主義には利点と欠点がある。利点は法人を設けることで家という組織から独立し、公私を分けることになった。欠点は株主という利益だけを目的とする人たちに支配される冷酷な組織になった。
ああいう西洋の組織がアジアでうまく機能するはずがない。だから資本主義と対決する共産主義がアジアには受け入れられる余地があった。アジアの共産主義が農村から広がったのもそれを物語っている。
資本主義が繁栄するのは石油消費および経済成長が必須である。石油消費と経済成長を止めれば資本主義は繁栄できない。新自由主義とグローバリズムは経済成長が鈍化したなかで資本主義の悪あがきといえる。
とはいえここまで築かれた資本主義を停止することは困難である。資本主義を規制で導くのが一番いい。経済では改良主義である。


九月二十二日(火)「民主的と民主主義は異なる」
人の上に立つものは民主的な態度が必要である。皆の意見をよく聴きこれらの意見に従うべきである。一方、民主主義というのは単純多数決でごり押しをしようという悪魔の発想である。少数は切り捨てられる。民主主義で政権を獲得したナチスがユダヤ人を虐殺したのはその例である。十分に議論してから多数決にするのが民主主義だという言い方をするが、多数決が分かっていて行う議論は八百長試合である。
現在の欧州は宗教戦争に始まりフランス革命、ロシア革命、ナチスに至るまでの反省の上に民主主義という壊れやすいガラス細工を護ろうとする一種の歌舞伎芝居である。
日本人はそのような歴史を持たないから、昭和三十年の保守合同以来今回の本格的な政権交代までに五十四年を要した。




人類は大昔は合議制であった。国の規模が大きくなるにつれ領主や貴族が現れた。国の規模と交通、通信の不均衡による過渡的現象と言える。
ここでは皇帝、国王、将軍、大名などを総称して領主と呼んでいる。

近代に入り通信や報道が発達し投票が可能となった。投票は西洋の発明ではなく、不均衡解消に伴う必然結果である。ここにアジアでも投票を受け入れる下地がある。
人間は堕落しやすい。権力の座にあるものは特に堕落しやすい。アジア各国は西洋の民主主義を真似る必要はない。しかし投票で政権交代する制度は必要である。
日本では保守合同以来合議制に近い方法が用いられてきた。過半数を有する自民党に対し、あるときは欠席戦術や抗議行動で廃案に持ち込むこともあった。アジアは欧州の議会を真似することなく投票を持ち込む必要がある。


九月二十三日(水)「民主主義の欠点」
自分の利害に関わる議決には参加できない。多くの法人の約款なり規約にはそう明記されている。ところが議会にはそのような規定はない。多数派は利害関係のやりたい放題となる。
労働者派遣法の採決には経団連や電機連合の推薦を受けた議員は参加すべきではない。地球温暖化の採決には経団連、基幹労連、電力総連、自動車総連の推薦を受けた議員は参加すべきではない。
民主主義とは悪魔にも仏にもなりうる人間が全知全能になったと勘違いした悪魔の思想である。アジアは民主主義のイギリスやフランスが広大な植民地を領有していたことから、そのことを見抜いていた。


九月二十四日(木)「アジアの期待を裏切った共産主義」
共産主義がいかにアジアで共感を持って迎い入れられていたかは、日本でもベトナム戦争のときにアメリカ軍の撤退を主張する声が多かったし、共産主義について語るときに自民党系の学者でも「彼らの主張にも立派な点はあるが」などの枕詞を付けていたことでもわかる。
しかし共産主義はアジアの期待を裏切ることが多かった。カンボジアではシアヌーク派の貢献で勝利できたのに、政権を取るとシアヌークを隔離し僧侶を還俗させ社会を破壊した。そこには先人たちの築き上げた文化への尊敬が欠けていた。クメール・ルージュの幹部はポル・ポトを始め多くがフランス留学組だったことに、東西ハイブリッドの欠点が示されている。


九月二十六日(土)「間違いの根源はマルクス」
カンボジアがひどかったのはポル・ポトが原因だ、中国の文化大革命は四人組が原因だ、いや毛沢東だ、旧ソ連はスターリンが原因だ、いやレーニンだ、とマルクスだけは神聖扱いされることが多い。

しかし共産党宣言(Manifest der Kommunitischen Partei)を読むと、誤りの根源はマルクスにあることが分かる。まず資本主義への批判は的確である(以下、水谷洋訳)。
  • かれらは(中略)複雑な封建的つながりを、容赦なくひきさき、人間と人間とのあいだには、はだかの利害関係、無情な「現金勘定」のほかには、なんのつながりも残さなかった。
  • かれらは、敬虔な熱中や騎士的な感激や俗物市民の哀愁の、神聖な発作を、利己的打算の冷水のなかで、おぼれさせた。
  • かれらは、人格的な値うちを交換価値に解消し、(中略)ひとつの、良心のない商業の自由でおきかえた。



九月二十七日(日)「人間は堕落することが根本の原因」
マルクスの欠陥は過去を暗黒の時代として捨て去っていることにある。その時代を精一杯生きた人びとを「俗物市民」や「神聖な発作」と蔑んでいる。
原始時代には合議制であった政治も、のちに世襲貴族や世襲領主が生まれた。これは時代が暗黒だったのではなく、権力を握った者が堕落し、通信と人口の不均衡からすぐには是正できなかったためと考えるべきだ。決して時代が暗黒だったのではない。
日本でも、鎌倉幕府は堕落した院政への対抗と考えられるし、室町幕府は後醍醐天皇の無理な政治への対抗と考えられる。しかし幕府もすぐに堕落した。
現代でも、共産党が政権を取ったロシアでは幹部の大量処刑が行われ、カンボジアでは大量虐殺が行われ、北朝鮮では世襲王国になってしまった。


九月二十九日(火)「唯物論と非唯物論の違い」
唯物論では、思考は脳髄の働きだという。文化は破壊してもいいことになるし反対する人は処刑や虐殺してもいいことになる。文化大革命やスターリンやポルポトの根源は唯物論にある。
先人が築いた文化はそのまま後世に引き継ぐべきだ。文化軽視では資本主義が根本でそれを共産主義が取り入れたと言える。


十月二日(金)「日本の社会民主主義」
日本の社会民主主義はまったくよくない。西欧の社会民主主義にはロシア社会民主党(後の共産党)との交流と断絶や戦後の冷戦など長い歴史がある。更に根底にはXX教、反王政、反XX教、宗教改革がある。
日本の社会民主主義は表面だけ真似をするから、旧社会党のように議員でいることだけが目的の連中や、現社民党、一部の民主党のように文化破壊を進めるだけの連中になってしまう。文化破壊については唯物論を放棄せず共同志向を放棄するためである
(「94、いまだに丸山真男を信奉する者は現代の軍国主義者である」へ)


十月三日(土)「毛沢東の名言」
一昨日は中国の建国六十周年で、「人民網」というホームページでは「中国共産党・国家指導者の忘れ難き名言」として毛沢東から胡錦濤までの名言を特集していた。毛沢東は「誠心誠意人民に奉仕する」「よく勉強し、日々向上するのだよ」「雷鋒同志に学べ」「工業は大慶に、農業は大寨に学べ」の四つが選ばれた。「病をなおして人を救う」も選んでほしかった。この言葉に本来の毛沢東の心の暖かさを感じることができる。 しかし毛沢東も後には次々と過ちを犯すことになる。一つ目には権力を握ると人は堕落する。二つ目には唯物論を信じてはならない。


十月十日(土)「民主的の利点は曖昧さを残したことにある」
西洋思想の入る前のアジアは民主的であった。あるいは民主的の堕落したものであった。世襲制の領主は絶対のようでいてそうでもないし、上席家老が絶対というものでもない。
正しいことを実行する者の熱意は通らないこともないが、悪意を持った者の企みも通らなくはない。曖昧を残したところに努力の余地がある。一方の民主主義は多数決だから安定度は増す。しかし既得権を持った者、カネのある者が世論工作をすることになる。民主主義の安定は冷酷な安定である。


十月十一日(日)「人は必ず堕落する」
最初は民主的でも政権を取ればすぐに堕落する。政治ばかりではない。事業を始めた人も最初は町工場や個人商店で人一倍働いたはずである。そこには搾取などありえない。しかし規模が少し大きくなるとそこにはもう搾取が始まる。
過去と未来の全人類に聞いてみよう。99%が現代人の化石燃料消費に反対のはずである。欧米人は民主主義に反している。欧米は民主主義をアジアに押し付ける資格はない。
民主主義が優れているのではなく、人は堕落しその対策のひとつに民主主義がある。アジアはそこから出発すべきだ。


十月十二日(月)「民主主義は手段の一つであり目的ではない」
社会民主主義は社会主義と民主主義の二つを目的にしている。手段に過ぎない民主主義を目的とするからアジアでは人気がない。資本主義は唯物論である。それに対抗する共産主義も結局は唯物論であった。化石燃料の使用を停止し、アジアでは資本主義と共産主義に代わる形態を築くべきである。


(國の獨立と社會主義と民主主義、その七)へ
(國の獨立と社會主義と民主主義、その九)へ

メニューへ戻る
前へ
次へ