108、民族派とは国際派のことである

平成ニ十一年
八月ニ十七日(木)「民族とは」
私は民族という言葉はほとんど使用しない。民族とは西洋思想がでっち上げたものだからである(「76、世界は一民族」へ)。しかし西洋文明が世界文明を破壊し続けているという状況にあっては民族という概念も有益である。民族派とは国際派のことである。

八月ニ十八日(金)「民族派執行委員」
私が労組に加入した年の定期大会で、選出された執行委員の一人が挨拶で「民族派も一人くらいはいたほうがいいので」と挨拶していた。加入した直後だったので誰だったかは忘れてしまった。
翌年の大会でも「民族派です」と挨拶をした。Aさんだったのか、とそのとき初めて分かった。Aさんは外資系に勤めている。「外資に勤めるとみんな民族派になる」と後日語っていた。
その次の年は私も「民族派とは国際派のことで、その意味では私も民族派です」と挨拶しようと思っていた。ところがAさんが先に「唯一の民族派です」と挨拶してしまったので、後から唯一に追加する訳にも行かず別の話をした。

八月ニ十九日(土)「本質を理解できない人は欧米かぶれに陥る」
欧米に行ったとしよう。短期の観光旅行でも長期の出張でもいい。一時は欧米かぶれになったとしても、ある程度の教養を持った人であれば、アジアには当てはめられない、或いはこのようなことを続けていれば地球は滅びると気がつくはずだ。本質を理解できない人はそのまま永久に欧米かぶれに陥る。

八月三十日(日)「アメリカにおもねる売国日本人が一番悪い」
私が十六年前に勤めた会社は、日本側の元商社員とオーストラリア企業との合弁会社であったが、赤字が続いたのでオーストラリア側が累積赤字分を負担して撤退し企業はその後も存続している。決して「株主は有限責任だから株式放棄以上の負担はしない」ということはなかった。当時は外資系企業が日本から撤退するときは従業員への再就職支援をするところも多かった。一つには自社ブランドが傷つかないようにすることもあろう。しかし社会的責任を自覚してのことでもあった。
翻って今の外資はどうか。平気で従業員を解雇する。責任は取締役だとか総務部長だとかの売国日本人が本国におもねてやっている。国内社会がしっかりすれば外資はそれに従う。売国日本人が国内でアメリカ追従をすれば、外資も勝手な振る舞いをする。

八月三十一日(月)「新聞社の駐在員と官僚の留学組はなぜ売国奴になるか」
海外旅行は楽しいに決まっている。遊びだからである。国内でも遊びは楽しいし仕事は大変に決まっている。
官僚は留学させないほうがいい。国内でも海外でも楽をするから売国奴になる。新聞記者も海外に駐在させないほうがいい。再販制度に守られているから売国奴になる。
資本主義社会にあって倒産と価格競争のない官僚と新聞社の売国奴には発言する資格はない。

九月一日(火)「平衡感覚」
日本人に欠けているものは平衡感覚である。一昨日の選挙ではやっと与野党逆転を果たした。これを契機に平衡感覚を取り戻してほしいものである。
江戸時代に儒者が日本橋から品川に引っ越し「唐へ二里近い」と喜んだという話が残っている。こういう時代に本居宣長が出現したのは意義がある。翻って現代を眺めれば過大にアメリカ文化が流入し人心を惑わしている。このような時代にあっては反米を主張することこそ平衡である。現時点に於ける民族派とは決して偏狭ではなく、平衡感覚に優れた主張といえる。

九月ニ日(水)「地球の癌細胞対策を立ててこそ国際派である」
アメリカは毎年大量の移民を受け入れ、3年前に人口が3億人を超えた。日本と戦争になったときが1億2000万人だから2.5倍以上に増えている。しかもアメリカは一人あたりの石油浪費量が突出している。地球温暖化の時代に許されることではない。
地球を守ってこそ国際派である。そして民族派とは永続可能な時代に一旦戻そうという主張である。つまり民族派は国際派である。

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