百三十の二、西洋音楽が戦前は軍国主義に、戦後は退廃したアメリカの属領に導いた(その二)
七月二十一日(水)「アジアの音程」
アジアの音程には幅がある。例えばレの音はド♯の少し上からミ♭の少し下までを含む。これに対して西洋音楽はハーモニーを作るために少しの高低差も許さない。西洋音楽のハーモニーは確かに美しい。しかしアジアは西洋の真似をしてはいけない。細かい音程を気にすることにより、失うものが大きい。
ここで千葉優子さんの著書「ドレミを選んだ日本人」を見てみよう。
- 日本は五音音階で西洋は七音音階などという単純な話ではない。それらを構成する各音の音程関係、つまり音律からして異なる。(中略)西洋人ばかりでなく、現代の日本人にとっても、当時の日本人の歌は音痴に聞こえてしまい、その音のずれは気になる。
- (アーネスト・メイソン・サトウは)音調の十中九までが調子はずれと思えるような、西洋の音曲とは全く異なった一連の音程からなる日本の音楽にヨーロッパ人の耳をなれさせるには、よほど長い年期を必要とするだろう
同じく千葉さんは「日本音楽がわかる本」で
- 日本音楽はみんな半音が狭いの? (中略)お琴や三味線の音楽では狭いものが多いけど、同じ三味線でも義太夫は広めだし、民謡や雅楽も広いものが多い
と述べている。兼常清佐氏も大正二年に「日本の音楽」で
- 三味線で半音といふのは決して一音(二度)の半分ではない。その三分の一或は四分一の音程である
と述べている。
七月二十二日(木)「悪魔の囁き」
日本の音律は西洋とは異なる。流派によっても異なる。
これだけでは何のことか分からないであろう。分かりやすく言えば、日本の音律は昨日述べたように幅を許容するということである。デジタルではなくアナログである。だから流派ごとに高めに取ったり低めに取ったりすることもできる。
そしてこれはアジアのほとんどの地域の音楽も同様である。西洋のハーモニーは美しい。しかしアジアの音楽に取り入れれば悪魔の囁きとなる。アジアの音楽の美点が失われるためである。
七月二十三日(金)「キリシタン大名と宣教師」
一昨日の「ドレミを選んだ日本人」を再度見てみよう。安土桃山時代にはキリシタン大名でさえ宣教師に日本の風習に従うよう要求したことが記されている。
- 司祭たちが弁明して、「日本人(のあなた方)は私たちが異なった風習の中で中で育ち、日本人の礼法を知らないことを考慮すべきだ」と述べたときに、(中略)彼らは次のように語る。
- 「このことについては、あなた方に同情するし、一年や二年なら、我慢するが、幾年も経っているのであるから我慢できない。なぜなら、あなた方が日本の風習や礼儀を覚えないのは、それを覚えようともしないし、それがあなた方の気に入らないからである。それは私たちに対する侮辱であり、道理にも反する。」
- 「あるいはまた、あなた方が日本の風習を覚えないのが、あなた方にその知力と能力が欠けている為であるならば、日本人はそれほど無能なあなた方の教えを受けたりあなた方を師とすべきではない」
この結果、日本イエズス会は日本の習慣に従うようになり、一五六〇年代には日本流の音調の聖歌が作られ、降誕祭や復活祭で舞が演じられ、一五六九年には京都で復活祭を祝うために近在の武士が集まり狂言の舞を演じた。安土桃山時代は日本人の西洋への感覚がまだ正常だったことがわかる。
七月二十八日(水)「角田忠信氏」
角田忠信氏は日本語やポリネシア語などを母国語とする人は右脳、左脳の使い方が欧米と異なることを発見した。そして韓国語、中国語、その他のほとんどのアジアの言語も、右脳と左脳の使い方が欧米の言語と同じ事を発見した。
これは日本語やポリネシア語が母音優位の言語であることが原因であり、悪意を持った目的に流用してはならない。悪意を持った目的とは
日本では昔から漢字と漢文は受け入れても、複雑な発音は日本式に変えることで対応してきた。隣国と仲良くする先人たちの智恵である。
七月二十九日(木)「日本の学者が創造性に欠ける理由」
角田氏は著書「日本人の脳」で、音楽学者の小泉文夫氏と対談している。
- (角田)私たちは幼いころからいやおうなしに浪花節だの民謡などをラジオで聞いていたでしょう。いまは浪花節を聞く子はおそらくいないでしょう。むしろそれを嫌悪するようですね。
特に子供にピアノをやらせている家庭なんか、あれ聞くとイヤになるといっている
(小泉)耳が悪くなるとか言って聞かせないのですよ。
(角田)これは、やっぱり自分に自信がないからじゃないでしょうか。模倣している限りにおいてはこれはすべてに当てはまります。
- (小泉)それが、私は日本の音楽文化の不幸の始まりだと思うのですよ。
(角田)そうですね。ぼくはせめて四十過ぎたら、もう見栄を捨ててもいいのだろうと思うのですが、四十になっても五十になっても絶対捨てない人がいるのですね。学問でも、外国の技術を身につけなきゃいけないと一所懸命翻訳をし続けて一生を終った人がずいぶんいるのですよ。音楽の場合もやっぱり同じように、勉強だけで終わっちゃう場合が多いのでしょうね。
(小泉)多いですね。ですから、日本の音楽家を見ていますと、若いうちは大活躍するのですけれども、ところが一息入れますともうおしまいになっちゃうのです。後は先生としてやっていくだけで、芸術家としてはだめなのです。
(角田)そうね。私たち科学の世界も四十歳でとまっちゃうのですよ。本当は四十歳を過ぎてから本当の創造が始まるわけです。
八月四日(水)「原理主義のいけない理由」
論語には立派なことがたくさん書かれている。そして論語の更に優れているところは、実際にはそのとおりに出来ない人が多くても論語と共存する歴史を築いてきたことにある。
マルクスの問題点はそういう歴史がないから、著作のとおりに実行して文化大革命のようなことになるか、官僚主義に陥って旧ソ連のように崩壊することになる。原理主義はいけない。終戦直後に米英仏蘭などは膨大な植民地を持っていたが、これらを手放すつもりはなかった。旧ソ連は民族解放戦線の戦略を取り、だから日本でも小宮多美江さんのように正当な主張が現れた。民族解放戦線は唯物論という原理主義から共産主義勢力を一時的に解放した。
日本では明治維新のときに神仏分離が起きたが、あれは文化大革命よりひどい文化破壊であった。諏訪大社や羽黒山には今でもその傷跡が残っている。
明治政府は維新ののちに唱歌の導入を図ったが唱歌自体は悪くはない。しかし論語のとおりにはできない人が多いのと同じように、唱歌に留まる人は少ない。戦前はその受け皿が浪曲であり民謡であった。浪曲は説教節、祭文などが発達したものであり長い歴史を持つから広まっても何ら問題はない。
ところが戦後はGHQによる日本文化破壊政策によって、浪曲は退けられ西洋風の現代音楽がはやるようになった。
八月五日(木)「現代音楽のいけない理由」
現代音楽は社会を崩壊させる。まず日本では西洋音楽の歴史が浅い。そして現代音楽は西洋でも歴史が浅い。現代音楽が社会に与える影響は西洋の比ではない。
国民が浪曲や民謡を好むとしよう。社会は崩壊しない。
国民が西洋音楽を好むとしよう。政治家や官僚や経団連が西洋の都合のいい部分を日本に取り入れるから社会は混乱する。しかも経済成長などと言いながら経済は停滞する。
国民が現代音楽を好むとしよう。現代音楽には拒否反応を示す人も多いから社会は共通文化を失い崩壊する。
八月六日(金)「西洋音楽の専門家の活用」
日本には学校の音楽教師を始めピアノ、オーケストラ、指揮者、作曲家など西洋音楽の専門家が多数存在する。これらの人たちを日本音楽の復興に活用すべきだ。日本音楽は現代科学の出現する前に生まれたから理論に弱い。
西洋音楽の専門家は、半分は西洋音楽を演奏したり教えながら、残りの半分は日本音楽を担う。例えば学校の授業の半分は日本音楽を教えるようにする。
国本武春という浪曲師がいる。ロックの忠臣蔵をニコニコ動画とyoutubeで見たがこれはすごい。早速浪曲を聞きに行ったがこれもすごい。武春師の優れたところは浪曲を演じるときは伝統を守り、ロックを演じるときは客層に合わせて含有させる浪曲度を変化させる。これぞ日本の芸術家の模範である。
国民に貢献する音楽家を本地(第一の形)と為し、西洋音楽の専門家を垂迹(第二の形)とする。これが日本の音楽家のあるべき姿であろう。
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