百十四(その四)、玉川勝太郎

ニ月十九日(金)「玉川勝太郎の娘」
私が小学生のときに、石渡さんという女の子がよく我が家に遊びに来た。石渡さんは根津片町、我が家は根津藍染町なので家は離れていたが、妹の同級生なのでよく遊びにきていた。その石渡さんが玉川勝太郎の娘だと知ったのはそれからずいぶんたってからであった。二代目玉川勝太郎は本名石渡金久。三代目は娘婿で女の子は三代目の娘であった。

私が一番最初に浪曲を聞いたのは何と昨年の十一月である。当ホームページで浪曲と講談を特集したために聴いたのであった。しかし図書館から借りたCDを聴いてみるとなかなか心地がよい。木馬亭に二回、CDで講談と合わせて四十枚、ユーチューブで十、テレビでも二つ聴いた。更に周辺芸術として長唄、義太夫、清元、新内、端唄、雅楽まで聴いた。
浪曲が明治期から昭和三十年前半まで大流行したのは、これら邦楽とつながりがある。邦楽に親しんだ人にとっては浪曲は心地がよい。その後急速に廃れたのはアメリカによる軍事占領地への文化断絶政策が功を奏したと言える。何しろ玉川勝太郎の娘が我が家に遊びに来ていたというのに、浪曲を聴きはじめたのが昨年の十一月である。

二月二十一日(日)「岸壁の母」
これと似た話がもう一つある。父の根津小学校の同級生に歌手がいて二葉百合子ではないほうだと前に聞いたことがある。だったら二葉あき子だろうと安直に思っていたが調べてみると二葉あき子は広島の出身で年齢も合わない。あと二葉のつく芸能人は玉川カルテットの二葉しげるくらいしかいない。二葉百合子の「岸壁の母」は、その前に菊池章子も歌った。父の同級生というのはどうやら菊池章子のようである。二葉百合子と菊池章子も今回のホームページをつくってみて初めてわかった。歌謡曲について私はもともと東海林太郎、藤山一郎、灰田勝彦のファンである。

今回戦前戦後の歌謡曲も二十人ほどの歌手について聴いた。そして判ったことは戦前の歌手は西洋音楽の本格派であり、それでいて日本音楽の感性に合っている。それに対し戦後の歌手は敗戦後の文化破壊政策とも言うべきものの影響を受け、昭和二十年代、昭和三十年代、昭和四十年代と年を追うごとに悪くなっている。

二月二十三日(火)「古きよき時代」
根津の染物屋がテレビで放送された。こういう昔ながらの染物屋は今ではほとんど見かけなくなった。それにしても兵頭氏の「かれが(由比正雪が)、いっぽうで「紺屋」の出といわれるのである。紺屋とは藍染め屋のこと、(中略)すくなからず卑賤視された職業であった。」
(その三へ)とは、ずいぶんひどい暴言を吐いたものである。兵頭氏はこの当時国立の埼玉大学教授で国民の税金から給料をもらっていた。国民のなかには染物屋もいる。その後私立大学に移ったとはいえ非常識にも限度がある。根津の染物屋は藍染町(現、根津二丁目)で今でもがんばっている。

根津の染物屋がテレビで紹介された話を母がしたので、石渡さんの話も聞いてみた。石渡さんのお母さんが「寛永寺幼稚園の保護者会の選挙で私がトップだったのよ」と自慢するので、その他の幼稚園の母親は嫌な思いをしたそうである。当時の根津小学校は上野桜木町の寛永寺幼稚園の卒園生が多数派であった。
有名な浪曲師の娘ならトップ当選もするし、本人もつい自慢したくもなるだろう。当時のラジオは毎日のように浪曲を放送していたし、自転車に乗ったおやじや銭湯につかったじいさんが浪曲をうなっていることも多かった。今から思えばよき時代であった。

二月二十五日(木)「浪曲から演歌、そして現代音楽へ」
三波春夫、村田秀雄、二葉百合子の三人は浪曲師だったが昭和三十年代前半に演歌に転じた。若者が浪曲に馴染まないことを見越してのことであろう。戦後の退廃文化が講談と浪曲を日本から駆逐したと言える。
三波春夫の「東京五輪音頭」と「世界の国からこんにちは」は好きな曲だが、三波春夫のファンという訳ではない。三波春夫自身は浪曲を演歌として時代に適合させたのであり「元禄名槍譜俵星玄蕃」を聴くとその思いが伝わってくる。しかし戦後の退廃文化が、伝統的な日本音楽と、日本に合うよう工夫された純粋な西洋音楽の両方を戦後のアメリカ文化が破壊し、三波春夫の努力も一世代分の時間しか繁栄できなかった。そして昭和四十年から現在に至るまで流行歌は毎年退廃していった。

二月二十七日(土)「三味線」
戦後、浪曲を挽回する工夫もいろいろなされた。まず最初に、三味線以外の伴奏を加える試みがあった。しかし三味線音楽の素朴さが失われる。二番目に、音階のある旋律を用いる試みもあった。しかし浪曲師自身が旋律音楽に合ってはいない。せりふ部分との調和も取れてはいない。三波春夫や二葉百合子は旋律音楽に合っている上に調和も取れていたが、このような大物はそうは現れない。

それではどうすればいいだろうか。まず日本の音楽教育は三味線に親しむよう変更すべきだ。アメリカ占領下ではあるまいし、そろそろ西洋楽器による音楽教育はやめよう。藤山一郎の「夢淡き東京」の二番の歌詞は「なつかし岸に、聞こえ来る、あの音は、昔の三味(さみ)の音(ね)か」と唄う。三味線の音をなつかしく思う人の育成を学校教育が行うよう、浪曲協会は運動すべきだ。
日本銀次の風流木遣節という浪曲がある。音階のある旋律を用いてはいるが、日本音楽なのでせりふ部分との調和は取れている。二十三年前のNHK大河ドラマ「花神」で、長州の守旧派を武力で破った高杉晋作らが三味線を伴奏に唄いながら道路を踊り歩く光景があった。日本の音楽はこの地点に一旦戻り、その上に西洋音楽を西洋の音楽として学ぶ必要がある。

三月一日(月)「義太夫節と新内節と里謡」
義太夫節と新内節も今回初めて聴いてみて、浪曲と似ていることが分かった。これらも復活させるべきだ。今の日本人は義太夫節と新内節と清元節と端唄の違いが分からない。ベートーベンやバッハの違いなんかどうでもよい。日本の教育がいかに歪んでいるかがよくわかる。
民謡も本格的に復活させるべきだ。しかし民謡という言葉はよくない。明治維新以前の里謡に戻したほうがいい。

三月三日(水)「東海林太郎、藤山一郎、ディックミネ、灰田勝彦、浪曲の共通点」
東海林太郎、藤山一郎、ディックミネ、灰田勝彦、浪曲の共通点はこぶしの利かせ方にある。日本の音楽は完全には西洋の楽譜に変換できない。大切な部分が欠けてしまう。学校の音楽教育は音階のゆるぎを教えるべきだ。
と同時に反響する建物は日本本来の音楽には適さない。マイクも日本の音楽には適さない。

三月五日(金)「庶民の側の講談と浪曲の復活を」
講談と浪曲には、庶民のために汗を流す任侠や義賊が登場する。しかし戦後の経済成長を経ると、やくざは暴力団と名を変え犯罪者以外の何者でもなくなった。もはやフーテンの寅さんのような人はいない。このようなときに任侠物を扱うには、江戸時代には庶民の見方とも言うべき任侠が少しだが存在した、というような枕詞を付けて演じるとよい。
もう一つの方法は、今の世で庶民の敵ともいうべきものと対決する講談と浪曲を新たに作ることである。庶民の敵とはバイ菌のように繁殖したバイ国拝米勢力、グローバリズム新自由主義者、偏差値詐欺男などの既得権守旧者どもである。庶民の立場に立ち、これらを退治する正義の講談と浪曲に期待したい。

三月七日(日)「講談を聴くとためになる。落語を聴くと駄目になる」
ある講釈師が「講談を聴くとためになる、落語を聴くと駄目になる」と言った。ずいぶんうまいことを言うものである。テレビで放送される落語は編集が入っていてまずい部分はカットされている。出演者も再度テレビ局から声がかかるようにとそういう話はしない。しかし生の落語では子供には聞かせられないような話も出てくる。落語の本体にはなくその前の雑談のような部分でそのような話をする人がいる。そこへいくと講談と浪曲は安全である。
講談と浪曲は歴史の勉強になるし、歴史とは異なる脚色が為されているときも、なぜ昔の人はそのような筋書きを作ったかを考察すべきだ。更に、昔の人たちの一般常識ともいうべき知識を身に付けることは必要である。学校の歴史の授業では、史実を教えるだけではなく、昔の物語との相違も教えるべきだ。
私が子供時代の学習百科事典では、例えば藤原信西は平治の乱で逃げる途中に地面の下に穴を掘り上から土を被せ竹筒で息を吸っていたが反乱軍に見つかり首を刎ねられた話を紹介している。史実とは思えないが平家物語の記述なので紹介していた。あるいは北条時頼の鉢木物語も載っていた。こういう話は伝統文芸として、もちろん学校でも教えるべきだが、まずは講談や浪曲が教えるべきである。

三月十一日(木)「変わり果てた南部坂」
南部坂雪の別れは、歌舞と講談と浪曲の名場面である。ところが今行ってみるとその変わり果てた姿に驚く。坂を上がると左側に高台とその上に張った金網がずっと続く。坂の上まで行くと警備員が厳重に入る人を見張っている。ここはアメリカ大使館の宿舎であった。ためしに周りを一周歩いてみると、その広さには驚く。在日アメリカ軍の宿舎は別の場所にある。いったいどれだけ大量のアメリカ大使館員が東京にいるのだろうか。
領事や外交の仕事にしては人数が多すぎる。彼らは日本でCIA活動をしている。アメリカ人は意識していないだろうが、日本文化は破壊され続け世の中は不安定となった。

三月十ニ日(金)「玉川勝太郎とディックミネと広沢虎三」
玉川勝太郎の十八番は「利根の川風、袂に入れて」である。今なら「CIAの工作資金を、袂に入れて」であろう。かつては自民党にCIAの資金を直接供与したこともあった。しかし今では直接は払わずに便宜供与であろう。官僚のアメリカ留学は、上層部や政治家への便宜供与と引き換えに、日本の税金で拝米派を作るという手の込んだ方法である。
ディックミネは「旅姿三人男」で「何で大政、何で大政、国を売る」と歌う。今なら「何で産経、何で読売、国を売る」であろう。
広沢虎三の十八番は今なら「バイ国奴は、死ななきゃ治らない」である。自民党の長期政権は、バイ国奴というバイ菌を全国に繁殖させてしまった。しかし自民党のせいではない。長期政権は堕落する。長期政権を許した当時の社会党と国民のせいでもある。バイ国奴は死ななくても必ず治る。今回の政権交代はその好期である。


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