百三十、西洋音楽が戦前は軍国主義に、戦後は退廃したアメリカの属領に導いた(その一)
平成二十二年
六月十四日(月)「駅前広場の彫刻」
駅前広場や公園によく彫刻が置いてある。しかしあれは何の役にも立たない。西洋では彫刻は安らぎを周囲に与える。アジアでは与えない。この差は西洋では彫刻が歴史の流れに沿っているのに対して、アジアでは西洋美術は異質なもので周囲と調和しないためである。アジア各国の昔ながらの美術を設置すれば安らぎとなる。
同じことが音楽にも言える。
六月十八日(金)「国民西洋化政策その一」
明治維新後に薩長政府による国民西洋化政策は音楽にも及んだ。小島美子さんの著書「日本の音楽を考える」には次のように書かれている。
- 明治十年代から、しだいに学校教育の中で音楽教育が行われるようになるわけだが、(中略)有名な(伊沢修二の)「和洋折衷」による「国楽創成」の方針で、(以下略)
- 明治二十年代には、(中略)洋楽中心主義に改められていったのである。(中略)この時代は鹿鳴館に象徴されるようにバカバカしいほどの欧化熱、改良熱が高まった時代で(以下略)
- これは音楽史の上ではきわめて重要な問題であった。国家が強い統制力をもって、しかも政府自らの意思決定によって、異民族の異質の音楽文化を組織的にすべての国民に植えつけるということになったのだから。
六月二十六日(土)「国民西洋化政策その二」
同じことを吉川英史さんも「日本音楽の美的研究」で述べている。
- 甲説によれば、音楽は(中略)洋の東西、人種の黄白を問わず、人情が同じところでは、音楽も同じものであってよい。そもそも西洋の音楽は、ピュタゴラス以来の研究により、(中略)その精巧美妙なることは、とうてい『東洋蛮楽』の及ぶところではない。それゆえに、西洋音楽の『良種』を選んで、わが国土に移植すべきであって、完全でない東洋音楽を育成するような回りくどい策はとるべきではない。
- 乙説によれば、各国にはそれぞれ独特の言語・風俗・文物がある。それらは、その住民の性質と風土の情勢とによって、自然に産出したものであるから、人の力では変えることのできないものである。(中略)日本に西洋音楽をそのまま移植しようとするのは、わが国語を英語にかえようとするような無益の論である。ゆえに、日本固有の音楽を育成して完全なものにするのが一番よい。
- 丙説によれば、(中略)その中庸をとり、東西両洋の音楽を折衷して、今日のわが国に適すべきものを制定するよう努力すべきである。
伊沢を代表とする音楽取調掛は丙説を選んだが、時代は甲説へと進んだ。次にドイツに留学し音響学を学び、オルガンを制作して皇帝の前で演奏し賛辞された世界的音楽学者田中正平の説を紹介している。
- 謡曲や義太夫のような「語り物」を音楽から除外しようとする古い説は、器楽だけを音楽なりと解する狭い音楽観であって、(中略)「其声楽が我邦の言語、文学との調和に宜きを得たる外、固有の美点を発揮して居る点に於て、我那の音楽としては、亳も欧洲の声楽に遜る所なくことをも忘却するが如き偏見に陥ったのである」
- 欧州楽(洋楽)は、日本で奨励さるべきであるが、その目的は、日本音楽の発展に対する刺激剤、参考物とするためと、世界との接触のため、外交上、国際的社交上に資するためであって、けっして、欧州楽を日本の国民音楽にするためではない。
まったく同感である。一方で西洋音楽を賛美する人も多かった。昭和十六年に兼常清佐氏は「日本音楽と西洋音楽」で次のように書いている。
- 読者のみなさん!ニッポンで音楽の話をする以上は、いかにつまらないものにしても、やはりちょっとはニッポンの音楽について何かいわなくてはなりますまい。もし未開の国で音楽の本を書くならば、やはり未開人の音楽のことをその初めにちょっと書くでしょう。
- 古いニッポン音楽のやうなものは、一時も早く、私共の生活から追ひ出さなくてはなりません。
- どうせ保存といふことが出来ないものならば、さういふ時代に生まれあはせた私共が、せめてはニッポン音楽と、そのごひいきどもの末路をよく見とどけておくのもまた必要な事だと思ひます。
昭和十六年に、日本を未開国扱いし、一時も早く私共の生活から追い出さなくてはならない、と主張する。いくら西洋音楽の本場のドイツ、イタリアと同盟を結んだとはいえこれはひどい。大本営発表のラジオ放送が、三味線や鼓の演奏とともに始まったのか、それとも軍艦マーチという西洋音楽とともに始まったのかを考えても、あの戦争は無理に背伸びをして西洋の仲間入りを果たしたつもりの日本が西洋式の戦争を起こしたものだとわかる。
兼常氏の見とどけたものは、西洋式の日本軍部とそのごひいきどもの末路であった。
六月二十七日(日)「アジアの音階」
小島美子さんの別の著書「音楽からみた日本人」をみてみよう。都節音階は江戸初期に率音階から分かれ、呂陰音階も呂音階から分かれたとした上で、
- 日本列島全体に今でも広く分布しているのは、律音階と呂音階である。
- 奄美大島と徳之島、その周辺の小さい島々では、これらの音階がもっとも基本的である。それから沖永良部島や与論島、沖縄諸島は飛び越えて、宮古諸島でもかなり多く、さらに八重山諸島にもかなりある。
- 民謡音階は北海道から奄美諸島の徳之島まで分布しているが、これは朝鮮半島からか、朝鮮半島を経由してきた人々の文化による可能性が高い。
- 沖縄音階の場合は、徳之島の南隣の沖永良部島から八重山諸島の南西端まで分布しているが、これはおそらく十四世紀を中心とした頃、東南アジアから持ち込まれた可能性が高い。
これらの音階は日本だけではなくアジアに広く分布している。
- 韓国・朝鮮、ツングースの一部、モンゴルなどに、民謡音階や律音階系や呂音階系の音階と共通する音階があり、モンゴルでは特に民謡音階はかなり優勢である。
- 中国本土の民俗音楽では律音階や呂音階が主流だが、民謡音階もある。
- タイ西北部の少数民族について報告された例によると、民謡音階がもっとも多く、呂音階も多い。さらに律音階や沖縄音階もある。
- チベットの音楽にもこれら四種類の音階があり、特に民謡音階の民謡の中には、日本民謡とそっくりのものがある。
七月十一日(日)「発声法」
「音楽からみた日本人」には、発声法について次のように書かれている。
- 日本人の声、特に男声はかなり高音域でややハスキーだった。昔の落語家、たとえば志ん生や円生のような声は一つの典型といってよい。
- 欧米の人々の声は音高はだいたいにおいて低く、まろやかで響きに深みがある。肉食のおかげで発達したあごや奥行きのある体がそれを支えている。
- オペラの声、つまりベルカントはそういう日常のことばの声をもとにしてでき上がったものである。だから日本人がまねようとすると、なかなか大変である。
- 学校教育ではこのベルカントによる声を頭声ということばで表現して、そういう声で歌うように教育している。その影響はもう民謡の声にまで及び、アナウンサーやタレントの話し声まで変えてしまっている。最近では裏声ばかり使って話す女性のタレントが増えてきている。
女性タレントの声はキンキンと耳障りである。なるほどこういう理由であった。しかし民謡にまで影響を及ぼすとなれば、事は重大である。対策として
- もともと日常生活の中で民謡を歌っていた人々の声は、クラシックの声楽家たちのように顔中口のように口を大きく開けなくても、ことばもよくわかり、声もよく通った。
- 日本の学校では、まず子どもたちのわらべ歌の声を基本にすえ、そこから民謡の声へと連なる線を中心に教えるのが自然であろう。
七月十八日(日)「小宮多美江さんの論文その一」
小島美子さんは、一九三十年代に起きた「日本的」作曲論争が洋楽を中心にすえた上でのものだったのに対して、一九七十年代の論争はより根本的な音楽観に立ち入っていることを指摘し次いで
- それにもかかわらず、小宮氏が一九七〇年代の現在の問題を「あの『論争』がおこった一九三〇年代の状況に似てきている」という観点で捉えているのは、やはりまだ洋楽中心主義的な考え方にとらわれているためではないだろうか
と述べている。ということで次に小宮多美江さんの論文を見てみよう。まず「近代日本と音楽」では
- 須永は(中略)洋楽一辺倒という正常ではない現状にあっては、ただ日本に生活しているというだけではたりない、ことさらに日本音楽の形を生かそうとする努力も必要であるとしている。これは、まさに「日本的作曲」をめぐる論争のなかであらわれてほしかった意見であり、彼が論争以前に亡くなったことは惜しいことでもあった。
まったく小宮さんと同意見である。
七月十九日(月)「小宮多美江さんの論文その二」
小宮さんは日本共産党の幹部なのであろう。同党中央委員会が一九九三年まで出版していた「文化評論」という雑誌の一九七四年七月号に「音楽の民族性をめぐって」と題する論文を書いている。この論文で注目すべきは
- (戦前は)先進西欧諸国に追従の姿勢をとりつつ、他民族を抑圧する側にあった当時の日本で、民族の問題は他国から抑圧を受けた戦後よりも複雑でわかりにくく、思想的に十分理解されていなかったことである。
- (安保闘争で)そうした全国民的な民族意識の高揚のなかで(中略)「労音」は伝統音楽に注目する姿勢をとるようになったが、反面六〇年代には伝統を口にし、民族の問題を考えることはそれだけで進歩につながると考えるたやすさがあったことも見逃せない。
- 戦後の私たちには、戦前の音楽家よりも有利な面もいくつかある。第一に私たちは戦後、被圧迫民族としての体験をもった。世界の音楽史を通じて民族的な音楽の興隆が、つねに他国の文化の強い支配あるいは影響に対抗しておこっていることも明らかなことである。たとえば十九世紀ロシアにおける国民楽派、東ヨーロッパにおけるチェコ、それにフィンランドなどの国民音楽、そして西ヨーロッパでは、さらに時代をさかのぼって十七、八世紀のフランス、ドイツ、イタリア等いずれも幾たびかの被支配と興隆の歴史を繰り返している。私たちが、安保以後の六〇年代にことに民族的な音楽への関心を高めたのも、私たちがはじめて下からのもりあがりとして民族意識にめざめたからにほかならない。
これもまったく同感である。
七月二十日(火)「小宮多美江さんの論文その三」
一方で次のような困難も指摘している。
- ゆたかな遺産は、ゆたかであればあるだけそれは封建的な古い制度の中で保存され、かなり長い間自然淘汰も行われずに、いま私たちの目の前にあるのだということも同時に知らねばならないからである。
- 困ったことに私たち自身、自国の伝統を異国趣味の目でみる危険性を世代が移るに従ってますますつよくもっているのである。すでに戦前の作曲家たちにさえその危険はあったが、戦後も長い間の外国依存の教育政策によって、ますます、私たちは自分自身の音楽遺産から遠ざけられた。
- 戦後再び西欧一辺倒の姿勢をとり直した文部省の音楽教育政策がレコードなどの音楽産業とも結びついて社会的にも大きな影響を及ぼしていることである。
これもまったく同意見である。ここまで読むと私も日本共産党に入党しようかと思うくらいである。
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