102-4、宮沢賢治4(田中智学と旧本門宗)

平成ニ十一年
五月十六日(土)「日興の御再来?」
日蓮は生前に六老僧を定めたが、滅後にまず日興が分流した。日興は大石寺と北山本門寺を建立したがその死後は西山本門寺、京都要法寺など八本山に分流した。明治年間に政府の命令で八本山は日蓮宗興門派、次に本門宗を名乗ったが、大石寺一派の独立が認められて日蓮宗富士派(後に日蓮正宗)を名乗った。
田中智学の教義はこの本門宗に近い。国柱会百年史によると 本門宗では内部が完全にはまとまらず合同には至らなかった。その理由は田中智学が既成寺院の僧侶妻帯や布教をしない姿勢を厳しく批判していたことであろう。
智学の長男、田中芳谷が昭和28年に著した「田中智學先生略傳」では、日蓮宗の管長に会った、日蓮宗と会合を持ったなど日蓮宗とのつながりのみが強調されている。智学の教義は日蓮宗とは異なり本門宗に近かった。この書は教義には触れないからそのような書き方になったとも考えられるが、芳谷自身が日蓮宗志向なのかも知れない。

五月十七日(日)「国民としての田中智学の政治発言」
僧侶や宗教家は政治発言をすべきではない。別の考えを持つ信徒が派内で信仰できなくなるなど影響が大きすぎる。しかし仏教や宗教の精神に基づいた政治をするように発言するのは好いことである。田中智学は還俗したから、政治発言もしている。会員が多くなれば発言は控えるべきだが、人数が少ないから問題は起きなかった。宮沢賢治もまったく問題にしなかった。 政治発言はどうしても間違いが多くなる。田中智学の明治政府に便乗した主張も今となっては時代に合わない。しかし田中智学の国民の立場に立った発言は立派である。

五月十八日(月)「佐渡前と佐渡と佐渡後」
日蓮の教義は佐渡流罪の前と後で大きく異なる。田中智学は佐渡以後の日蓮の著作も精読し、本門宗の教義に近付いた。
智学自身は、 佐渡前、佐渡後と昔から言ふが、佐渡後の法門にも色々純雑不同の事がある。佐渡後の法門で佐渡前と同じものがあるから、(中略)佐渡前、佐渡、佐渡後と三つに分けなければならぬと述べている。

五月十九日(火)「折伏は数十年が限度」
田中智学の「本化摂折論」は力作である。布教には摂受と折伏があるが法華経は折伏でなければならないという内容である。田中智学の一生は実際に折伏の六十年であった。一方で長期にわたる折伏は社会への悪影響が大きい。
戒厳令というものがある。治安が悪化したときに出されるが国民が素直に従うのは数日で解除されることが分かっているからである。もし七百五十年も続くのなら生活は不可能となる。
日蓮自身の折伏活動は三十年であった。身延に入山した後も国主がこの法を立てられる時期を遅くとも数十年先と考えていたのではないだろうか。

五月ニ十日(水)「乱世にしか折伏はできない」
日蓮の時代は飢饉疫病蒙古襲来と乱世であった。田中智学の時代も明治の廃仏毀釈に始まり西洋文明流入で国内は混乱し最後は大東亜戦争に突入した。乱世といってよい。
翻って現代は乱世とはほど遠い。折伏は乱世にしかできず、平時は折伏に備えるという考えもできる。
一方で今は果たして平時だろうか。一見平穏に見える世の中は化石燃料の消費と引き換えである。地球滅亡が目前にせまった今こそ乱世である。それでは日蓮系各派はどのように折伏をおこなうべきだろうか。

五月ニ十ニ日(金)「個別入会活動は布教ではない」
田中智学は富士山のふもとに「国立戒壇」を主張した。
今では国立戒壇というと違和感を感じるが、戦前は神社が国立であったことを考えれば別に変ではなかった。信教の自由と国立戒壇分の国税を控除するなどして不公平にならないようにすれば、国立戒壇でも何ら問題はない。

その国立戒壇を顕正会という団体が今でも主張している。大石寺を昭和49年に破門された団体で、強引な勧誘で毎年のように逮捕者を出している。その顕正会本部を昨年末に訪問してみた。駐車場の整理をしていた青年に場所を尋ねると目を輝かしていた。本部では受付の女性もなかなか感じの好い対応であった。しかし責任者が不在なので明日もう一度来てほしい、ということになった。明日も不在だと手間なのでまず電話を掛けることを私のほうから提案し別れた。帰りに大宮氷川神社の境内を歩くと初詣の準備をしていた。国内でも指折りの参拝者の神社である。参拝者のうちの一割が顕正会のような団体に入れば日本はもっとよくなるのだがなあ、と考えた。その一方で明日の電話はたぶんうまく行かないだろうと思った。私から提案したことではあるが。
翌日電話を掛けると予想通り「浅井先生(会長)の著書を読め」「紹介者がいない人は入会させない」などと言っていた。このことから顕正会の活動は勧誘であって布教ではないことが分かる。

五月ニ十三日(土)「顕正会と国柱会(現代)は感じの悪い女を電話口に出すな」
顕正会は私の母のところにまで勧誘をするので一度本部を見てこようと出かけた。一方で国柱会(現代)にも今年になってから電話した。「宮沢賢治を調べている」と言ったが「資料はありません」「一般の人にはお見せできません」「講演会もやっていません」と対応がよくなかった。なぜ「年会費幾らで会員になれます」「月幾らで機関誌を購読できます」「こちらに来れば説明します」と言えないのか。
顕正会と国柱会(現代)に告ぐ。布教の熱意のない、感じの悪い女を電話口に出すのは止めてもらいたい。

五月ニ十四日(日)「折伏とは」
折伏とは法華経以外の経典を認めないことである。決して日蓮系の団体が互いにいがみ合うことではない。最初に改善が必要なのは大石寺派である。かつては日本で最大の信徒数を誇ったが創価学会と別れて今では零細教団になってしまった。その原因は歴代の猊下(大石寺の住職)の言うことは絶対で従わないと例え日蓮直筆の本尊を拝んでも功徳がないという硬直した教義にある。日興が亡くなったのちに北山本門寺は日代が第二代になったが暫くして追い出された。なぜここで「大石寺の猊下」は仲裁しなかったのか。言うことが絶対なら皆が従うはずである。こう質問すると大石寺派は、北山本門寺は別の寺だと答えるがこの時点で既に大石寺以外の信仰も認めたことになる。
田中智学は本門宗とは関係が深かったが、大石寺とは対立していた。明治二十三年に大石寺五三世板倉日盛の「田中智学氏の僻見を破す」と 題した演説会を単身聞きに行き反論すると板倉日盛は論題の半分しか話さず切り上げた。

五月ニ十五日(月)「上層部は法論」
田中智学の「本化摂折論」は高度な内容である。とうてい一般信徒が議論できる内容ではない。上層部はぬるま湯に浸かることなく他の日蓮系団体と大いに法論すべきである。一方で信徒どうしは同門の信徒として友好を深めるべきである。
それでは法華経以外の他宗とはどうすればいいのか。

五月ニ十七日(水)「30年で布教は完成できるか」
田中智学の主張に従えば法華経は折伏のお経である。30年で折伏を完了できるならすべきだし、できないならすべきではない。
日蓮の時代に唯物論は存在しなかった。動物と大自然を切り捨てて人間だけが中心という悪魔の思想は東洋には存在しなかった。日蓮が今を生きれば最大の折伏目標は唯物論と見抜いたことであろう。
宮沢賢治の根底にあるものは唯物論の克服である。賢治の童話には動物や大自然が多く登場する。

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大乗仏教(日蓮系)その一
大乗仏教(日蓮系)その三

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