大楠公を聴く(MIDI:サイト「童謡・唱歌の世界」)

101、温かい街関西、冷たい街首都圏

平成ニ十一年
四月一日(水)(温かい街関西、冷たい街首都圏)
春休みに関西へ行った。子供が大阪に転校した友人に会うためである。私はその間にまず堺市の与謝野晶子生家跡と千利休屋敷跡へ行った。途中、反正天皇陵があった。道が分からず尋ねると親切に教えてくれた。概して関西は心が温かい。首都圏は心が冷たい。その理由を最後に考察しよう。

四月二日(木)(仁徳天皇陵)
次に仁徳天皇陵に行った。あの広い敷地を半周した。あのような大きな古墳を作るのに多くの人々が汗水を流したことだろう。歴代の天皇には良い人も悪い人もいる。あるいは仁徳天皇陵は失業対策だったのかも知れない。今となっては知ることができない。
翻って明治維新から戦前までの天皇はよい天皇だろうか。残念だが西洋の王室を模倣したものだった。軍服を着た天皇はやはり日本には合わない。戦後の天皇はどうだろうか。皇族はいずれも西洋に留学してやはりよいとはいえない。
天皇は日本文化を守る先頭にお戻りになっていただきたい。
これらを天皇の責任と考えてはいけない。戦前の天皇は西洋文明の圧力下で薩長や公家が作ったものだし、戦後はマッカーサーや官僚どもが作ったものである。古くは後醍醐天皇の時代に足利尊氏が背いたのも楠木正成の進言を受け入れなかったのも、側近の公家たちが原因とされている。

四月四日(土)(お初天神通り)
最初の日に泊まったホテルは大阪駅のすぐ近くだった。東京と異なり大阪は駅前から庶民の街が始まる。お初天神通りというアーケード街のお好み焼き屋で夕食を食べた。お初天神にも寄った。夜なのに大勢の参拝客で賑わっていた。きれいなビルに入ったショッピングモールよりも、日本にはこのような街が似合っている。
二十年前にホテルのすぐ近くの蓮華寺に参詣したことを思い出す。黄金週間のときだったのでたぶん立宗会(りっしゅうえ)の法要であろう。読経後の説法で住職が「本日は東京と淡路島からも参詣者があり・・」と私にも言及された。今回お寺を探したが二十年前のことであり見つからなかった。この寺は日蓮正宗の末寺の序列が第二位の名刹だったが昭和30年代に離脱し日蓮実宗を名乗った。
創価学会は、西山本門寺、日蓮実宗、正信会と手を結ぶといい。かつては互いに反発して離脱したりしたのだが、西山本門寺は貧乏を苦とせず孤高を守り、日蓮実宗と正信会は宗務院から処分を受けた。創価学会は大局に立ちそういう志の高いところと組み日興門流を再建させるべきである。


四月五日(日)(姫路城)
次の日は姫路城に行った。間もなく始まる修復の前に一度見ておきたかった。大勢の説明ボランティアがいた。英語のボランティアがどうもよくない。たぶん韓国人だろうアジア系の観光客にくだらぬ会話をしていた。
アジア人どうしが英語で話すのはよくない。INAXの工場間通信にTOTOの社内回線を間借りするようなものである。情報が筒抜けになる。だいたいボランティアの説明は内容がよくない。日本語のボランティアでさえ説明版に既に書いてあることを話しているだけだ。説明板を読んだほうが早い。説明板に韓国語、中国語で書くと同時にタイ語、ベトナム語などの配布用資料を用意しておく。地球温暖化を防ぐためいずれ航空機は廃止されよう。船で来れる国を重視すべきである。

四月六日(月)(難波から湊川へ)
次の日はまず難波に行った。吉本のなんば花月の前で小学生が父親に、出演者の顔写真を順番に指差しながら「おもろい」「おもろうない」と説明していた。おもわず笑ってしまった。吉本の芸人よりこの小学生のほうが面白い。中には入らなかった。この日は神戸に行くことが主な目的で時間がなかった。
上方の寄席は二十年前に松竹の浪花座に1回入った。上方の芸人は吉本と松竹に別れているが、あのとき吉本が漫才ブームで大きく引き離していた。松竹は角座を閉鎖し、3年後に浪花座で復活した。あえて小さいほうを見た。かなりお客さんが入っていた。

神戸の南京町で昼食を食べた。横浜の中華街よりはるかに小さく、しかしはるかに混んでいた。

湊川神社へ行った。大河ドラマの太平記で武田鉄矢が楠木正成を演じていたことを思い出す。多くの武将が足利尊氏側に付くなかで、楠木正成は少数派の後醍醐天皇に付いた。ここが重要である。明治維新後に大勢で天皇を誉めても偉くも何でもない。
宝物館で大楠公真筆の「法華経奥書」(重要文化財)を拝観した。幕府を倒したので法華経を写経し社前で法華経一部を読誦するという誓書である。
湊川神社は大楠公に倣い今後は神前で法華経を読誦するようにしたらどうか。神仏が争っていては日本の国民は救われない。
このあと関帝廟に行った。通行人に道を聞いていたところ、たまたま近くに居た新聞販売店の人がいっしょになって親切に教えてくれた。

四月七日(火)(天神橋商店街)
この日は天満宮近くのホテルに泊まった。高校の体育部の合宿と韓国人留学生らしい人が多数泊まっていた。天満宮の横にアーケードがあったので歩いてみた。大阪環状線の天満駅を過ぎてもなお続いていた。ここは日本で一番長い商店街だそうだ。商店街の栄える街は住みやすい。駅前や郊外に高級ショッピングモールのある街は住みにくい。

四月八日(水)(下町の消滅)
関西だけが親切に道を教えてくれる訳ではない。日本中どこでも道を聞けば親切に教えてくれる。首都圏だけが唯一変なのだ。かつて東京は下町と山の手に分かれていた。下町と山の手では言葉も違っていた。今では首都圏全体が山の手になってしまった。強いて言えば郊外が新しい下町である。しかし郊外には歴史がない。
先日、千葉県佐原の利根川左岸地区でじいさんに道を尋ねた。親切に教えてくれた。「あそこに家が見えるべ」と関東の特徴の「べ」とともに「左さ曲がって」と方向を示す「さ」を用いた。「さ」を使うのは東北地方だけだと思っていたが千葉県でも用いることを知った。

四月九日(木)(山の手弁は廃止しよう)
東京の山の手という語には昭和60年ころまでは、政府高官や金持ちが住む地域という嫌な響きがあった。全国の共通語と称している言葉はこの山の手弁である。明治維新以後に全国から集まった上流階級が作った人工言語と言える。こういう言葉を使っていると利己的で欧米かぶれで機械的な人間になる。丸山真男がインテリと持ち上げた階層である。放送局は山の手弁の使用を停止しよう。各人が出身の言葉で話せばいいし、ニュースは文語体を用いるべきだ。例をあげよう。

午後七時のNHKニュースなり。本日北朝鮮はミサイルを発射せり。かのミサイルにつき北朝鮮は人工衛星と発表せるも軌道に乗りし形跡なく、日本国政府は人工衛星の失敗せしものかミサイルかにつきて調査を開始せり。

だいたいアナウンサーが素顔でテレビに現れるのはよくない。声だけでいい。どうしても写すのなら歌舞伎の黒子の格好をすべきだ。欧米の真似をするからああいう番組ができる。

四月十日(金)(関西の温かさ)
大阪にも悪いことがある。自転車のマナーが東京より悪い。東京だってそれほどよくはないが大阪はもっと悪い。無灯火でスピードを出して歩行者の脇を走る。しかし電車に乗ると関西のほうが暖かい。
4人掛けの私の向かいの席が空いた。隣のおばさんがその席に荷物を置き「おばさん」「おばさん」と大声で離れた位置に立っている人を何回も呼んだ。自分の知り合いの席を確保したのか、ずうずうしいおばさんだなあ、と普通は思うところだがそうではなかった。立っていたのは知らない人で子供を三人連れているので呼んだのだった。近くの男子学生に「座れんですまんな」と言っていたが、東京山の手弁ではああいう温かい雰囲気にはならない。

四月十一日(土)(サラリーマンが国を滅ぼす)
京阪神は国内第二の産業地帯である。他の地域、例えば四国から見れば、大都会は嫌やなあ、と思うに違いない。しかし首都圏から見ればまだまだ関西はまともである。
なぜ大都会は異常なのだろうか。それはサラリーマンの街だからである。

四月十二日(日)(全国から首都圏を包囲しよう)
JR福知山線の事故のときに、負傷者の救護に当たる人がいる一方で脇目もふらずに出勤を続ける人もいた。サラリーマンというものは命令されたとおりに動くロボットである。丸山真男はこの階層を真のインテリと位置付けた。戦後の一億総中流化により、この階層が国民の主流となった。大都会はブラックホールのように人を引き寄せこの階層は今でも増大している。
この階層は化石燃料の使用を停止すれば崩壊の運命にある。しかしまだしばらくは続きそうである。
求職者が首都圏に行かなくてもいい国を作る運動、そして明治時代に作られた東京山の手文化を撲滅する運動を全国から進めようではないか。関西は大都市とは言え首都圏ほどひどくはないのだから、その運動の先頭に立つ資格がある。


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