103、新聞の偽善、反社会性
平成ニ十一年
六月五日(金)「新聞は偽善である」
昨日、女児殺人事件の犯人とされていたSさんが17年ぶりに釈放された。多くの新聞は検察、警察を非難した。今回の原因はSさんが自白をしたことにある。その結果、真犯人を逃した。Sさんの責任は重大である。なぜ新聞はそのことを追及しないのか。新聞は偽善である。
六月六日(土)「警察、検察の担当者を追及しろ」
各新聞の主張を煎じ詰めると、国家権力が悪い、ということになる。確かに国家権力は暴走すると危険である。しかし今はそういう時代ではない。国家権力は暴走しない。代わりに既得権の役人と政治家が危険である。こういう連中こそ追及すべきだ。
今回の場合は、まず警察、検察の当時の担当者、その上司、上司の上司を追及すべきだ。自白させた者および、別に犯人がいるかも知れないと気が付かず操作を打ち切った者である。刑事と民事には時効がある。しかし事実を追求することに時効はない。
政治家も追及されるべきだ。何でも欧米の猿真似をしているから、こういうことになる。
六月十九日(金)「死刑を考える」
Sさんが死刑は廃止すべきだといった。そういう記事が載った。Sさんの自白で真犯人を取り逃したのに筋違いも甚だしい。そのような発言をなぜ新聞はありがたく掲載するのか。日本の新聞には反社会性が潜む。
死刑のない世の中はすばらしい。ぜひそうすべきである。そのためには重大犯罪のない世の中にしなくてはならない。死刑とは崖のようなものである。飛び降りる人がいるからと国内すべての崖を埋め立てるのではなく、崖から飛び降りないよう国民を導くべきである。
制度として死刑が必要かどうかは国内の歴史に照らして考えるべきだ。決して欧州の真似をしてはならない。欧州には欧州の歴史がある。
六月ニ十日(土)「平安時代の死刑廃止期」
平安時代に薬子の変で藤原仲成が死刑(西暦812年)になってから保元の乱で源為義が死刑(1156年)になるまで日本では死刑が執行されなかった、と歴史の本には書かれている。実際には前九年の役で藤原経清が陸奥守により斬首(1065年)されている。死刑が執行されなかったのは京都のみであり、地方では殺人犯、盗賊などへの死刑は行われていたと見るべきだろう。
中央で死刑が行われなかったのは、祟りや怨霊を恐れたためであり、今とは事情か異なる。共産主義国を除き宗教を信じる人の割合の一番低い現代の日本では最も用いてはならない方法である。
地方では極悪人を死刑にしないと社会が維持できないことを知っていた。自分たちは嫌なことには手を染めたくないという中央貴族の身勝手に過ぎなかった。その結果、源頼朝(1192年)から徳川慶喜(1868年)まで幕府の世の中となった。幕府と言えば聞こえはいいが私有政府である。田中土建工業や麻生セメントが日本を統治したと考えれば分かりやすい。
六月ニ十一日(日)「死刑執行の記事で分かる新聞の偽善性」
新聞がどれだけ偽善かは死刑執行の度に書かれる、「これで何人目」という記事で分かる。死刑判決は裁判所が出す。死刑の執行をしなければ三権分立を破壊する。ところが死刑が執行されると、「今年に入って何人目」、「今年は多い」、などと新聞は書く。
死刑のない世の中はすばらしい。そのためには犯罪のない世の中を作るべきだ。新聞はそのための努力をしているか。日本の新聞とその関連会社の俗悪テレビ局は世の中の公序良俗を破壊しているだけだ。それを自由だと勘違いしている。その行き着く先に新自由主義がある。
六月ニ十三日(火)「東條英機には敗戦責任が、新聞社には開戦責任がある」
先の戦争について言えば、対外的には東條英機に戦争責任がある。対内的には東條英機に敗戦責任が、朝日新聞など新聞社に開戦責任がある。新聞が国民を戦争に導いたからである。
戦争を煽った連中が、戦後は平和を叫ぶ。それでいて駐留米軍は放置する。「人殺しは米軍がやってください、私たちは平和を叫びます」という訳だ。ハムや肉を食べるくせに屠殺業者を「ひどいことをする人たちねえ」と非難するようなものだ。新聞は日本最悪の偽善集団である。
六月ニ十四日(水)「心神喪失者と心神耗弱者」
日本の刑法には欠陥がある。心神喪失者は罰せず心神耗弱者は刑を軽減するためだ。殺人犯の松本智津夫は裁判のときから奇行を始めた。最初は片言の英語しか話さなくなった。その後だんだんひどくなり今では刑務所で垂れ流しだそうだ。それでも裁判所はだまされなかった。棄却されたときに刑務所に戻るや「ちくしょう」と叫び演技がばれたそうだ。
刑法は、「心神喪失者や心神耗弱者は裁判官の裁量で刑を軽減することも出来る」と修正すべきだ。欧米の猿真似をするからこういうことになる。放置している政治家、学者、新聞社の責任は重い。
六月ニ十五日(木)「臆病な職業」
江戸時代に民主主義を唱えたら偉い。戦前に軍部を批判したら偉い。ところが新聞は、民主主義の世の中で民主主義を唱え、平和な世の中で平和を唱える。新聞記者とは臆病な職業である。
裁判所が死刑を言い渡したのだから、死刑にしないことは三権分立に反する。第三次小泉改造内閣の法務大臣は任命されるや死刑執行には署名しないと発言し直後に取り消した。それでいて在任中はついに署名しなかった。まず嘘をつく法務大臣はよくない。署名しない法務大臣は更によくない。それを罷免しない小泉氏は最もよくない。新聞は死刑不執行を批判すべきだった。しかし書いた記者が朝日、毎日の場合は新聞社内で左遷されよう。
六月ニ十七日(土)「公益軽視の典型」
朝日新聞はしばしば槍玉に挙げられるが、毎日新聞、中日新聞(東京新聞)も朝日と変わらない。今回は東京新聞を取り上げてみよう。
神奈川版に「市謝罪ない」支援者落胆という大きな活字が載った。ピック病の茅ヶ崎市職員が懲戒免職から停職六ヶ月に軽減された。ピック病は若年性認知症の一つで万引きをすることもあるという。
「免職処分後、収入が途絶え、周囲から厳しい視線にさらされ、心身ともに苦しい状況に追い込まれた」「ひと言のおわびもないのは許せない」「市長にはしっかりと謝罪してほしかった」
という支援者の言葉も載っていて、記事を読んだ人は、ひどい市役所だ、ひどい市長だ、と思ってしまう。
万引きをしたことには変わりないのだから、停職六ヶ月は残った。しかも職場復帰は難しく、市は
本人と相談した上で、療養休暇なども検討する
という。読売新聞によると
「この3年間、大変な心労があったと思う。当時の処分は適切だったが、委員会の判断は真摯(しんし)に受け止める」
という市長の言葉が載っている。読売新聞を読んで初めて、市公平委員会の裁定であることが判る。いずれにせよ3年分の未払い給料を含め、多額の税金が無駄になる。ピック病という病気のあることを世間に知らせなかった厚生労働省、それを追求しなかった国会議員と新聞の責任は大きい。欧米の猿真似ばかりしているからこういうことになる。国会議員について言えば、欧米の猿真似で与野党対決を装うのではなく、ピック病のような事項を地道に取り上げるべきだ。地道といえば、万引きをしなくても中小企業では解雇や嫌がらせ退職という事件が後を立たない。こういう事件こそ新聞は取り上げるべきだ。今回のピック病の件について言えば多額の税金が無駄になったことを取り上げるべきである。
六月ニ十八日(日)「未解決と賠償不能は犯罪者全体の不利益に」
犯罪者が刑期を終えたときに、社会復帰はできるのだろうか。かつては親類、村、青年団などがその機能を受け持っていたが、欧米の猿真似で壊してしまった。
さて、犯人に賠償能力がない場合や犯人が見つからなかった事件はどうすればよいか。それは犯罪者全体が刑罰と民事補償額未解決分の負担をすべきである。例えば本来懲役5年の場合は未解決負担分として5年5ヶ月、被害者への補償額が1000万円の場合は支払い不能および未解決負担分として1200万円とし、上乗せ分は国庫が基金に繰り入れる。このような制度は少し考えればすぐ思いつくではないか。欧米の猿真似ばかりしているから気が付かない。
欧米の猿真似をしてはいけない。最近議論され始めた重罪犯の時効廃止問題はアメリカの事例で初めて気が付いた。欧米の猿真似をすれば日本の文化に合わないだけではない。本家より不完全なものになる。
六月ニ十九日(月)「拝米新聞は人類の敵だ」
船橋洋一の「英語公用語論」は日本における戦後最悪の言論と言えよう。内容が乏しい上に偏っている。その船橋を朝日新聞は主筆にした。三十年ぶりに主筆という役を復活させた。船橋については「アメリカ傀儡船橋洋一が主筆の朝日新聞を購読するのを止めましょう!」というページに詳しい。
毎日新聞についても、今年元日の一面トップに「日米安保改定から間もなく半世紀。軍事、経済、社会、文化まで、同盟は広範に深化してきた。」という記事が載った。その隣には世界の多様性を否定する主筆菊池某の主張も載っている。(「97、新聞ファシスト」へ)
朝日、毎日の主筆を拝米派が占めた。読売は会社自体が拝米である。これでは日本の社会は崩壊する訳だ。それだけではない。日本を拝米化することにより、世界の多様性を破壊しようとしている。菊池某の主張がそれを暴露している。拝米新聞は人類の敵である。
七月一日(水)「死亡ひき逃げは死刑または無期懲役に」
昨日、体験入園帰りの二歳の幼児がひき逃げで死亡した。ひき逃げは3年以下の懲役または20万円以下の罰金であったが、さすがに低すぎるので今は5年以下の懲役または50万円以下の罰金に引き上げられた。それでも低すぎる。一年にひき逃げは1万五千件ほど発生し、約二百人が死亡している。おそらく五十人は手当てをすれば助かったであろう。死亡ひき逃げは死刑または無期懲役が相当である。こんなことは多くの人が思っている。拝米者が主筆の新聞と、欧米猿真似の法務省が悪い。新聞社は海外支局を廃止すべきである。官庁は職員の海外留学を停止すべきである。
七月三日(金)「現状との闘い」
制度を変えようとすると、現状との闘いとなる。その一方で新しい政策には方法が多数あるし、うまくいくかは不確実である。ここに世の中の多くは現状維持となる。現状を変えるには歴史からのぶれを正すことが重要である。この姿勢に欠けていた為に戦後五十年に亘り野党第一党であった社会党は消滅した。
六月ニ十八日の「未解決と賠償不能は犯罪者全体の不利益に」は、なかなかできるものではない。しかし日本の長い歴史から見て今の刑罰を軽く感じる理由は、明治維新以降は刑事責任と民事責任を分離し、刑事責任は社会秩序の維持にとどめた為であることを考えるとき、民事責任を果たしえない犯罪者への刑罰を重くすることは日本の歴史に合っていることを主張すれば、実現は可能となる。
七月四日(土)「日本の新聞の最大の欠点」
日本は全国紙が三つしかない。このうち朝日と毎日は主筆が拝米派、読売は会社全体が拝米で、その上に社長が共産党くずれ。準全国紙ともいうべき産経はポチ保守拝米派。これでは日本がおかしくなるのも無理はない。
新聞は再販制度で保護されている。その上に新聞社の数が少ない。自分たちだけ保護主義を謳歌しながら資本主義社会で言論を張る。まともな報道が出来るわけがない。
この際、再販制度は廃止したらどうか。あるいは戦後ビール会社を分割したように、新聞社を分割する方法もある。全国紙を解体し地方新聞を各県に二つ以上設ける。昭和十七年の新聞統廃合令の前に戻すだけだ。簡単である。これさえできないようでは、日本の新聞は戦中体制を脱却できない。
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