72、2つの集会(日本会議から新左翼まで)
平成十九年
四月三十日(月)(2つの集会)
昨年正反対の2つの集会に出席した。「皇室の伝統を守る一万人大会」(3月7日、日本武道館)と「全国労働者総決起集会」(11月5日、日比谷野外音楽堂)である。前者は日本会議、後者は新左翼系の主催である。
前者について言えば、女系天皇は西洋文明による日本文化破壊である。阻止する必要があった。後者は国労等の「団結まつり」(亀戸中央公園)を訪れ千葉動労の出展を見ていたら誘われて500円を車内改札(?)で払い入場整理券を購入した。
五月六日(日)(皇室の伝統を守る一万人大会)
前者では登壇した中西輝政氏、ベンアミシロニー氏(録画、ヘブライ大学教授)の人選が気になった。中西氏は伝統派ではなくイギリスかぶれアメリカかぶれである。ベンアミシロニー氏のイスラエルは戦後に建国した新興人工国家である。二人とも発言内容に問題はなかったが、この二人でなければ話せない内容でもなかった。日本の保守派が保守とは一番正反対のアメリカに近いという矛盾が現れている人選であった。
他に登壇した三好最高裁元長官、島村自民党国会議員、西岡民主党国会議員、アフターブセット慶応大教授(インド人)などの話はよかった。これらの方々は純正な伝統派である。
五月七日(月)(中西氏の発言を吟味する)
中西氏の発言を厳密に見ると「日本文明」という言葉が気になる。文明とは文化のことであり戦後の用語の混乱から生じた。一方で世界の五大文明というように文明には文化を統合した意味もあり、「日本文明」という場合は前者の意味で使用しながら聞く者に後者の意味に誤解させ、日本をアジアから分離するという意図が隠されている。
五月八日(火)(全国労働者総決起集会)
後者の全国労働者総決起集会では、戦争に反対ということが強調されていた。国会議員は戦争には行きません、行くのは我々です、という発言もあった。まったくその通りである。100%賛成である。しかしこれだと戦争さえ起きなければ米軍が日本に駐留していてもまわないととれなくもない。
これは末期の社会党の主張である。あのとき共産党は、もし日本が侵略されたらどうするかを社会党の国会議員に質問し「逃げる」と答えた人がいたと非難した。その後、ソ連の崩壊を経て社会党は分裂、共産党はかつての社会党にシフトした。ソ連の崩壊は旧革新系の精神に重大な影響を与えた。
五月九日(水)(合同労組)
会場ではある合同労組の委員長と活動家を紹介され、その隣の席に座った。委員長は教師を定年退職したという温厚な方であった。活動家は都の清掃事業の派遣社員という世間からは低く見られがちだが充実した人生を送っているという印象を受け、大会の演説に「そうだ!」とうなずいたりしてなかなかの好青年であった。
たまたま大会の一週間ほど前に別の組合に加入していたので、最初にそのことを説明しその合同労組には入らなかった。かつての新左翼組織は労組活動で社会に貢献するのが一番いい。
五月十日(木)(名著「二十世紀の民族と革命」)
休暇を取り新左翼について調べたところ、新左翼の元最高幹部白井朗氏の「二十世紀の民族と革命」という書籍を見つけた。名著である。旧社会党、旧総評、日教組、共産党、その他すべての旧革新系の人たちに読んでほしい書籍である。
宗教について、白井氏は次のように評価する。
- ユダヤ教、XX教、イスラム教、ヒンドゥー教、儒教、仏教などといういわゆる世界宗教(儒教は他宗教に比して独自性がつよく宗教というよりも現実主義的社会規範)が生まれたことは、人類の歴史において特筆すべきイデオロギーの創造であり、それ以前の道徳・社会的規範が存在しない未開の時代時代に比しておおきな進歩であり、社会がなりたつ道徳基準を提供してきたことである。
マルクスが宗教を批判したことについて
- もともとXX教以外のアジアのイスラム教、ヒンズー教、儒教、仏教等々といった宗教の研究というより知識・情報自体が当時のヨーロッパでは欠如していた。異民族の宗教について知識そのものが欠けている状況のもとで、いわばアプリオリにXX教的世界の優越性をおしだすというマルクスの考え方は、宗教を否定しているがゆえにかえって牢固たる信念である。
次に民族問題について、
- レーニンが民族自決・民族解放闘争(民族運動)を社会主義革命の重要な一課題として考えていこうとした巨大な思想的転回点をなす。
- カウツキーは文明の先進国ドイツが、文明の後進国ロシアにたいして戦争することは、社会主義が文明の進歩の結果として実現のであるから支持できるという立場をとった。
- これにたいするレーニンの批判の深化は一九一五年一0月ついに発表される「社会民主党の綱領のなかで中心点となるのは、まさに諸民族を抑圧民族と被抑圧民族に分けることでなければならない。」
- 「帝国主義的経済主義」とはブハーリンやピャタコフが唱えた「社会主義革命が勝利すれば民族問題は自動的に解決するのだ。だからロシアが革命政権を樹立した以上、ポーランドに独立を認める必要はない。」という考え方である。この考え方は別名「民族ニヒリズム」とも呼ばれ、民族とは階級の前にはとるにたらぬ集団ないし存在、むしろ歴史的進歩にたいする阻止要因であって、社会主義実現されればすべて解決する、民族にこだわる必要はまったくないという無自覚的な帝国主義的抑圧民族の意識をマルクス主義で粉飾した考え方である。この見解はボリシェビキのなかではじつに根づよく、かの一九一七年四月協議会(四月テーゼを決定した歴史的な会議)の民族問題部会では一旦多数意見となり、レーニンが驚いて再召集して決議を転覆したというほどのものだった。
五月十一日(金)(名著「二十世紀の民族と革命」②)
ところがそのレーニンからこれに反する言説がなされているという。
- 「これらの先進国(イギリス、フランス、ドイツその他)では民族問題はずっと前に解決ずみであり、民族共同体はずっとまえにその命運がつき、『全民族的な任務』は客観的には存在しない。だから、いま民族共同体を『爆破』し階級的共同体を建設することができるのは、これらの国々だけである」
これについて白井氏は次のように批判する。
- 言語共同体を爆破するのであれば、数十万人、数百万人から数千万人もの人口をもつ民族の全員が他の大言語(レーニンは世界語として英語またはロシア語をあげている)に母語をとりかえるということをなしとげたときにのみ達成されることになる。
しかし白井氏はマルクス・レーニン主義者の立場を守っている。それは次の理論による。
- 宗教一般が悪だとする理解はマルクス主義ではない。ただひたすらなる悪・ただひたすらなる善はこの世には存在しない。硬直的な宗教否定論者は、宗教のつよい影響下の文化はすべて反動的でその価値は無である、伝統文化はいっさい無価値とするが、それはまさに宗教の考え方である。なぜならこの考え方ではマルクス主義以前の文化はいっさい無価値となるから。マルクス主義がいかにして誕生したのか、XX教を信じるヘーゲルやアダム・スミスの理論を摂取して生まれたのではないのか?従来のいっさいの文化から断絶して、忽然とマルクス主義が誕生したという考え方ほどマルクス主義を宗教化する立場はない。
五月十二日(土)(名著「二十世紀の民族と革命」③)
白井氏はカウツキーを批判する。
- レーニンはプロレタリアートが民族・祖国とはいっさい無関係だとするいわゆる純粋国際主義と呼ばれる機械論をするどく批判している。
- 民族意識の根づよさを往々にして抑圧民族のとくに左翼は無視する人が多いが、それはアンチ・リアリズムにすぎない。
- 民族を社会科学的に分析すれば階級に分解されるから実体として存在するのは階級だけであるという経済主義(下部構造万能主義)・階級唯一論の民族抹殺論である。これは経済学的に解明できる階級という社会集団だけを対象とするのが唯物史観だと考える浅薄な経済決定論である。
- ローザ・ルクセンブルグの「民族問題と自治」はカウツキーの思想を肯定してつぎのように引用している『カウツキーによれば、XX教、イスラム教、仏教という三大文化共同体が同時に形成されたという』『より小さな民族の言語が徐々に衰退し、やがて完全に消滅し』『最終的にひとつの言語、ひとつの民族に統合される』
- レーニン自身先の引用にみるとおりカウツキーを正しいと考えていた。
- カウツキーの考え方をごく基本点にかぎって批判しよう。
- 歴史的認識の杜撰さ、低水準である。三大文化共同体をあげているが、当時でも世界最大の四億(現在十二億以上)の中国語人口をもつ儒教文化圏を省略したのはなぜか?中国に次いで人口の多いインド(現在の人口約九.八億)のヒンズー文明も除外されている。要するにカウツキーはアジアの歴史と文明について無知である。あくまでヨーロッパのみが世界だという大前提で問題を論じている。こんな無知と西欧中心の歴史観で世界語なるものをかんたんに決定されては、われわれアジア人はたまったものではない。
- 階級唯一論者が思いこんでいるように、階級だけが社会関係を構成しているのでは決してない。家族・民族という社会関係を律する基礎的な集団を無視して、資本主義的生産様式による等質化を唱えるのは事実に反する。
- もっとも重要な点は、英語というひとつの言語に同化することは、ドグマにすぎない。
世界語という名分のもとに大言語をおしつけることは帝国主義的民族抑圧の過酷な形態にすぎない。
- スターリンは、以上のような世界語不可能論の、カウツキーを批判する体裁をとって、その実ロシア語を世界語として押しだす民族消滅論を唱えている。
五月十三日(日)(国民に信頼される新左翼に)
企業別組合の日本では、未組織労働者はまったく無視されている。今から30年前に、私の最初の職場は化学関係でひどい働かせ方だったので、合化労連埼玉化学一般に相談した。対応した役員が無責任でそれ以来私は全民労協(現在の連合)を信用しなくなった。次に「一人でも入れる」が看板の全国一般埼玉地本に相談した。埼玉地本は全労連だが書記長のT(共産党員)の態度が悪く、しかし共産党を今でも別に嫌いではない。その後全労協でも同じようなことはあった。看板とは裏腹に労組の対応は悪い。一人を相手にしても組合の収入、上部組織への選挙権は知れたものだからであろう。
話を労組から新左翼に戻すと、これまで内ゲバでさんざん世間に迷惑をかけてきたのだから、組織拡大の手段ではなく社会貢献で未組織労働者の組合化を進めたらどうか。あと警察を警備警察と公安警察に分け、警備警察とは仲良くすべきである。戦後の警備警察は国民の評判が良い。国民を敵に回すべきではない。デモの警備に当る警察官に「ご苦労様です」と声をかけるくらいはすべきである。警備警察と仲良くするとは犯罪のない社会を目指すことである。内ゲバもご法度である。
五月十八日(金)(不確実性の時代)
白井氏は新左翼の最高幹部だったが90年ころから反主流となり除名、02年には内ゲバで重傷を負った。なぜこのようなことが起きたのだろうか。
左翼だから内紛が多いのではない。仏教でも提婆達多(デーバダッタ)は仏敵の代表のように言われているが、本当はお釈迦様の従兄弟で熱心な弟子だった。日本の永平寺では道元から数えて三代目の徹通義介が追い出された。
従来から続く組織では成功する確率は、従来どおり行うことが正規分布の一番高い位置にある。ところが新しい組織ではランダムに分布し高い位置がない。船頭が10人いれば10通りの航路がある。
世界中の各民族は数千年に亘り続いた文化があるのだから、これを守ることが一番成功する。民主党、社民党、共産党、新左翼もその例外ではない。
五月十九日(土)(保守と社会主義)
地球温暖化を阻止すると西洋文明は立ち行かない。西洋文明は資源の消費で一時的に世界を席捲しただけである。地球は各民族が伝統を守ることで存続できる。化石燃料を使わない社会は、人力に頼る社会であり、これは社会主義へ向かう。
保守とはメンテナンスであり、伝統に不具合を生じたら修理することである。一方で社会主義とは社会をメンテナンスすることであり、かつては社会党、共産党の社会主義、民社党の民主社会主義、公明党の人間性社会主義と、すべての野党が唱えていた。保守と社会主義は特定の党派のものではなく、すべての政党と団体が持つべきものである。
メニューに戻る
前へ
次へ