58、正仮名遣ひを使はう「見沼代用水訪問記」その2

平成十八年


五月三日
前回(正仮名遣ひを使はう「見沼代用水訪問記」)に続いて見沼代用水を訪問した。 通船堀の近くで農家の老人に「皇太子樣は西縁(にしべり)にも來られたのですか」と質問すると「いや東だけだつた」と答が帰つて来た。文字にすると判らないが農村の会話には心が入つてゐる。都会での会話は無生物に向かつて話してゐるに過ぎない。一方農村の会話は稲作以来の歴史を受け継いでゐる。

鈴木家と云ふ旧家がある。通船堀とともに文化財に指定されてゐる。土曜日曜は江戸時代の船の模型を公開と書いてあるので入口にゐた老人に聞くと、土日に公開してゐると云ふ。さうか本日は祝日であり土日ではなかつたと氣附くと、老人が「いいよ、中に入つてかまはないよ」と云ふので見学させていただいた。

東縁を上流に向かふと外側にも農家が残つてゐる。しかし内側の見沼田圃に公園や高校の運動場など公共施設が目に附く。見沼田圃は田圃を残すところに意義がある。後継者がゐなければ国若しくは県か市が後継者を見つけるべきである。緑を残せばいいと云ふものではない。 私が30年前に歩いたときは内側も外側も一面の田圃であつた。その7年ほど後に西縁を尋ねたときは既に外側が一面の宅地と化してゐた。


五月四日
見沼代用水の堰にごみが溜まつてゐる。浮いたペットボトルが目立つが投げ込んだビニールごみ袋が上流から流され堰で留まつてゐる光景も数回見た。
東縁と西縁の分流点兼綾瀬川の伏越まで上つたので、次の日は下流に向かひ歩いた。通船堀のすぐ下に木曾呂の水門がある。ここが此の日に稼動してゐる最下流の堰であつた。その下の根岸水門は最早稼動してゐない樣子であつた。更に下流に妙蔵寺と云ふ寺がある。すぐ近くに手差しの堰の跡があつた。近くで作業をしてゐた僧侶に伺ふと7年くらゐ前までは板があつたが腐つたので撤去されたさうである。


五月五日
鳩谷市内で、油の臭ひがする下水が鉄製の排水管から見沼代用水に放水されてゐた。帰路に見たときは放水されてはゐなかつたから、排水が溜まるとポンプが稼動するのであらう。なほ下流に向かふと都県境の堰で殆どの水が毛長川に放流され、一部が足立区の見沼公園に流れてゐた。水処理施設を経て公園内を流れる。最早再処理しないと公園内を流せないほど汚濁してゐるのである。公園の下流部では水を循環して親水公園となつてゐる。この水は用水とは無縁の水である。作業をしてゐた区役所の人の話では、(用水路と)滝と親水はそれぞれが独立して循環してゐるさうである。浄化しても水遊びはできないのであらう。

西縁では前回の訪問記のやうに東北本線線路から下流は用水の水が流れる公園となつてゐる。この水は用水の水そのものであり浄化したものではない。そして浦和領辻の旧中山道から先は暗渠となり循環水の水遊び公園となつてゐる。見沼代用水土地改良区の規則では、東北本線線路の少し上流の元西福寺前分水口までが西縁、そこから分離した新曾用水、辻用水がそれぞれ蕨町旧国道、浦和市大字辻の旧国道までとある。用水の水が暗渠となる地点は前回の訪問記出発点であり、それは偶然にも見沼代用水土地改良区規則の最下流地点でもあつた。


五月六日
昭和45年ころ足立区六月町に行つた。当時は中学生であつた。開通したばかりの地下鉄千代田線に乗り当時の終点だつた北千住で降り東武鉄道で梅島まで行きバスに乘つた。男の車掌さんがまだ乗務してゐた。六月町に行くか問ふと「旧道ですよ」との回答だつた。六月町で降りると辺り一面は田圃であつた。道端に肥溜めがあつた。あの田圃にも東縁から竹塚堀乃至は千住堀を経て水が供給されてゐたのであつた。
見沼代用水改良区の規則では、東縁の終点は都県境である。そこから先は都の管轄または独立の改良区であつた。


五月七日
通船堀の近くで觀光客に説明してゐる六十歳位の男性がゐた。話を伺つた。偶然にも辻の出身で今は通船掘の近くに住んでゐると云ふ。
「下水ぢやないか?」(辻用水を逆流してゐた水に就いて)
「見沼用水の水だらう。あのあたりではK園芸も見沼用水の水を使つてゐたからねえ」(武藏浦和駅近くに最後まで残つた田圃に15年くらゐ前までポンプで簡易マンホールから水を揚水してゐた件に就いて)
「へえ、見沼用水を調べてゐるの。皇太子も見沼用水を調べてゐるんだつてねえ。この前、調べに來たよ。」

浦和市下水道部の地図では、辻用水を逆流してゐたのは下水道の大谷場幹線である。今では汚水、雨水の共用であるが、当時は雑排水を含む雨水だつたのであらう。

さて、合口二期の前までは見沼代用水には三つの漁業組合の漁業権があつた。柵とコンクリートで囲んだ為に漁業とは無関係の水路となつたことも今回の調査で判つた。

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