二百六十六、変はりゆく浦和の四十年

平成二十四年
五月四日(金)「大谷場氷川神社」
二日夜から二泊三日で足立郡浦和(明治維新前の地名を用いる理由)に行つた。京浜東北線の南浦和駅を西口に降りると駅前通りの一本南側の道は切通しだつた。両側の土の壁はトンネルのように中央が広く上下は小道のほうにせり出し木の根が絡んでゐた。その後年月が経つにつれて土がだんだん崩れ壁が少しづつ後退していつた。そのうち右側の台地はブルドーザで平地に均され左側だけの切通しになつた。それから数十年の間、土は崩れ続けつひに緩やかな斜面になつてしまつた。斜面の上には大谷場氷川神社が鎮座する。
大谷場といふ地名は京浜東北線の向こう側の駅から離れたところに現存する。駅の向こう側がまづ南浦和何丁目に変はつた。線路よりこちら側の駅周辺と向う側の駅から離れたところに大谷場が分断された。隣接する川口市小谷場といふ地名があるが、南浦和の南だからこれを含めると三つに分断された。そして二十年くらい前に駅の手前が南本町に変はつた。

五月五日(土)「伊勢丹とコルソ」
浦和駅の西口は小さな商店が密集してゐた。舗装してないバスの折り返し場もあつた。そこを区画整理して2棟で内部が繋がつた大きなビルを建てて伊勢丹とコルソが入つた。これらが建つ前は国道17号からのバスは、新国道、県庁前、浦和駅前と数分のうちに着いたのに、新国道から浦和駅前まで10分近く掛かるようになつた。そもそも伊勢丹は税金を免除して進出してもらつた。
浦和に伊勢丹は要らなかつた。小田急や京王電鉄や地下鉄丸の内線が浦和に乗り入れないのと同じく、伊勢丹も新宿が似合ふ。とは言へ出来てしまつたものは仕方がない。伊勢丹とコルソの7階から東側を見ると、見沼田圃やはるか先がよく見えた。
ところが3年ほど前にパルコが東側にできた。視界が4割に減つた。ところが今年行つてみるとまたビルを建ててゐる。これが建つと視界は2割に減る。

五月六日(日)「野田の鷺山」
野田の鷺山は昭和四五年あたりからサギが来なくなつた。バスの終点の鷺山で降りて鉄骨の展望台に1回上がつたことがある。上がつてもサギはゐなかつた。後に2停留所くらい離れた場所に鷺山記念公園が出来て終点もここに移つた。
昔は浦和から鷺山に向ふ道路は2車線で歩道のない道路だつた。途中で見沼田圃を横断するが、周囲の田圃とまつたく区別はできなかつた。今は周囲が住宅地になり見沼田圃だけが昔ながらの農地を残すことになつた。

五月八日(火)「見沼代用水」
利根川から取水した見沼代用水は、途中で西縁と東縁とに分かれ、両方の間は本来は周りも含めて田圃だから別に呼び名はなかつた。しかし今では上流部分は見沼田圃と呼ばれるようになつた。下流部分は宅地化された。
両縁の中間を中悪水或いは芝川と呼ばれる川が流れる。田圃は見沼代用水から取水し中悪水に排水する。を防ぐためだらうと思つてゐたが、水位の差が真の理由である。利根川から取水した水は水位が高い。田圃から排水した水は水位が低い。今では電力やエンジンで揚水するが、以前はそんな地球を破壊するようなことはしなかつた。悪水とは水位が低くて田圃に引くことができないといふ意味であつた。

五月九日(水)「足立郡」
昭和四五年頃に東京足立区六月町に行つたことがある。周囲は田圃で東武バスの六月町のバス停から西に入る道路端に肥溜めがあつた。この辺りにも見沼代用水が流れてゐたが今では住宅地になつてしまつた。
足立区といふ地名はよくない。足立郡のうち東京側だから南足立区と名付ければよかつた。足立区と呼ぶと埼玉県側は足立郡ではない印象を受け、つひにさいたま市といふ醜い自治体名が現れた。同じ例に葛飾区がある。これも千葉県側は葛飾郡ではない印象を受け、京成電鉄の葛飾駅は西船駅といふ醜い駅名になつた。
さいたま市を名乗るようになる前あたりから浦和は悪くなつた。かつてはコルソ伊勢丹くらいしか高い建物はなかつたのにやたらと増へた。旧中山道が寂れた。旧中山道から木造の商店が激減した。

五月十日(木)「ラジオの鉄塔」
かつては川口市にNHKのラジオの鉄塔があつた。京浜東北線の赤羽を過ぎると見へ始めた。2本あつて両方を鉄線で結んでゐた。夜は赤色灯が交互に点滅し、浦和から見ることができた。その後久喜に移転した。例へあつても高い建物が増へたので浦和からは見へなくなつた。

五月十二日(土)「国道17号」
かつては国道17号の戸田橋を渡ると、あとは二車線で歩道がなく、といふか田圃にそのまま繋がる道がずつと続いた。車が少なく途中浦和に入るまで信号が5箇所くらいあつた。戸田橋から浦和市内まで自転車のペダルを漕ぎ続けて無停車で行けたこともある。
昔は板橋区内をバキュームカーが走つてゐた。偶然といふことがある。昨日組合の執行委員会の前に雑談で、昭和47年まで田植へが行はれたといふ話も出た。板橋区は工場の街といふ印象もあつた。

五月十三日(日)「成増行きのバス」
かつては浦和発池袋行きと蕨操車場発赤羽行きのバスが戸田橋の都県境を超へた。今は両方とも廃止になつた。荒川の戸田橋より上流の笹目橋では下笹目発成増行きのバスが1時間に1本の割で細々と走る。帰りはこのバスを使ふことにした。
下笹目まで一時間ほど歩きそこから成増まで乗り、あとは地下鉄を使つた。浦和からJRを使ふより140円高くなるが、違ふ経路を使ふのは価値がある。バスカードが廃止されてからPasmoのバス特は使はないことにした。バスカードは民営バス会社から発達した。バス特は天下り法人から発生した。しかも計算が一箇月切捨てだから不利である。バス特は天下り法人にとつてはバス得でも乗客にとつてはバス損である。首都圏の乗客諸君。バス損の使用を拒否しバスカードを復活させようではないか。

五月十五日(火)「こうもりの飛ぶ街」
私が浦和に引つ越した昭和四七年は、夜になると長さ10cmくらいのこうもりが飛んだ。しかしその後十五年ほどしてJR埼京線といふ醜悪な通勤電車が建設された。東北新幹線の大宮から南の東京側は在来線とは離れて計画された。しかし周辺住民の反対運動にあつた。そこで並行して通勤線を建設する案を出し住民は一転して歓迎した。地価の値上がりには目が眩む。
土地は鉄道沿線の狭い地域とそこから離れた広大な地域があるから、野生生物が共存できる。東北線と西側に埼京線が走れば広大な地域が宅地化し、こうもりは生息できなくなる。東北線の東側は野田の鷺山があるし、まさか開発はされないだらうと思つてゐたが見沼田圃を除き宅地化された。昭和55年頃の話である。そればかりかその二十年ほどあとに埼玉高速鉄道といふ醜悪な鉄道が建設された。その前に東北自動車道もあつた。余談だが野田とは浦和東部の昔の足立郡尾間木村付近であり、しょうゆの名産地の下総の野田とは関係がない。消費税を叫び続ける野田の詐欺山とも関係はない。(完)


73、見沼代用水訪問記その3(西縁下流部の分水路)
525 高沼用水(大晦日)、見沼田圃(元日)、新浦和土地改良區記念公園(一月二日)訪問記

メニューへ戻る 前へ 次へ