百二十五、今年のメーデーで連合は全労協を抜いた
平成二十二年
五月二日(日)「二つのメーデー」
今年も連合メーデーと全労協メーデーの二つに参加した。連合は四月二十九日、全労協は五月一日であった。社民党の福島党首も両方のメーデーに参加していた。両方を比較すると、今年のメーデーで連合は全労協を抜いた。
連合が伸びた理由は鳩山政権の誕生と普天間問題であろう。登壇者の挨拶で、派遣の仕事を希望する人もいるが、多くは正社員として働くことを希望しているのだから派遣は規制すべきだ、というような内容が多かった。
五月六日(木)「全労協メーデーの問題点」
もう一方の全労協のメーデーは、主催者挨拶、連帯挨拶、来賓挨拶、メッセージ披露とここまではよかった。しかしその次に演奏と称して「他民族・多文化メーデー合唱団」という臨時組成の人たちが「ウィ アー ザ ワールド」という変な英語の歌を歌ったことに尽きる。入口で来場者に英語の歌詞を配り、全員で歌ってください、と叫んでいたが会場で歌っている人はほとんどいなかった。メーデーで英語の歌詞を歌おうという人は本当の全労協の組合員にいるはずがない。
他民族・多文化であるのなら、なぜ開催地の日本語で歌わないのか。これでは朝日新聞の船橋洋一と同じである。船橋洋一は移民が近所に住むようになるから英語を話せと奇妙なことを言った。日本に住むのだから日本語を話すに決まっているではないか。もちろん日本語が不自由で困っている人には他の言語で親切に手を差し伸べるべきである。
労働者には「インターナショナル」という国際連帯の歌がある。総評はもとより中立労連でも歌っていた。なぜこの歌を歌わないのか。「インターナショナル(L' Internationale)」はフランス語の歌詞を世界の社会主義者や共産主義者や労働者が自国語に翻訳し歌っている。英語でも「The Internationale」と語尾にeを付けて区別している。
五月八日(土)「資本主義は精神が荒廃する」
米ソの対立はソ連の崩壊とともに終結したが、崩壊した理由は化石燃料消費社会に共産主義経済がついていけなかったことと、官僚主義の蔓延である。だからそれ以外の主張は今でも参考になる。資本主義が進むと帝国主義になるということと、資本主義は精神が荒廃するという二つは今でも正しい。アメリカの軽音楽に合わせて珍妙に踊るコメディアンと、ソ連の陸上競技の選手を映してアメリカの精神荒廃を訴えた宣伝映像は、まったくそのとおりである。
しかしソ連もその後はオリンピックのメダル数だけを誇るようになってしまったし、官僚主義は国民の自由を奪い経済の停滞を招いた。
五月九日(日)「世界の『インターナショナル』を歌おう♪」
フランスのオペラ歌手によるインターナショナル(削除されたため代替。話が入る上に迫力が各段に落ちる)はすごい。しかし日本語でオペラの歌い方をしてもこの魅力は出せない。日本ではこういう歌い方が親しみがあっていい。
インドのインターナショナル(削除された)は音階を適応させている。タイのインターナショナルには農村地帯の雰囲気が現れている。韓国のインターナショナル(削除された)は日本のラジオ体操に似た前奏がいい。アラビアのインターナショナル(削除された)は中東のリズムとメロディーに適応させている。西洋文明に統合するのではなく各国の文化に合わせる。これこそ国際連帯である。
五月十日(月)「『聞け万国の労働者』と『晴れた五月』を歌おう♪」
「インターナショナル」は国際連帯として取り上げたが、歌詞が時代に合わないのは事実である。その一方で「聞け万国の労働者」はよい歌である。昭和四十七年ごろに「八時だよ、全員集合」という人気番組があり、加藤茶が「聞け万国の労働者♪」と歌いながらのこぎりを引く場面があった。政治の立場を超えて国民全体に親しまれた曲である。
「聞け万国の」という部分から国際連帯も果たしている。この歌こそ「インターナショナル」の日本版と言ってもよい。日本では「インターナショナル」のような西洋式の過激なやり方は好まれない。全労協はこの歌こそ国際連帯として歌うべきであった。
一方の連合メーデーは録音で労働歌を流していた。総評時代の歌は「晴れた五月」の一曲になってしまったが、これも名作である。この時点で連合は全労協に優った。
五月十一日(火)「アジアには資本主義者も共産主義者も社会主義者も存在しない」
「インターナショナル」は世界の社会主義者と共産主義者に歌われてきた。しかしアジアには社会主義者と共産主義者に区別はない。だからかつての社会党は社会主義者と共産主義者が同居していた。そしてアジアには資本主義者もいない。元社会党と元民社党の議員が今では民主党に移籍し元自民党と仲良くしている。
全労協の低調を改善するには目的を失わずに手段を柔軟にすべきだ。戦後の労働運動と旧社会党は一貫して目的を劣化させ手段を死守してきた。
五月十ニ日(水)「社会運動の目的」
社会運動の目的は、社会を守り脱落者を出さないことである。手段として社会民主主義や民主社会主義やマルクスレーニン主義や地域主義や伝統派があろう。ところが日本は米ソ対立に巻き込まれ、社会党と総評、民社党と同盟、保守勢力がそれぞれの手段を死守して争った。
これらすべての勢力は社会を守るという目的を目指すべきである。日本では西洋文明の影響が著しい明治時代中期以降を除き、大昔からこの原則は守られていた。今こそすべての勢力はこの原則を復すべきだ。
五月十三日(木)「これらの主義を目的とする弊害」
社会民主主義や共産主義を目的としても実現が不可能だから、目的を劣化させることになる。総評末期に各企業別組合は隠しベアを始めた。連合発足後もこの体質は改善されず電機連合の委員長は昨年「製造業派遣を禁止すると、国際競争力がなくなり、電機産業はやっていけない」と述べた。電機連合(当時の電機労連)は中立労連で社会党支持、つまり社会主義を目指すはずだった。しかし不可能な状態が続いたために目的を自分たちだけの金銭を目的とするに至った。
目的は劣化させず手段を柔軟にする。このことが重要である。
五月十四日(金)「進化した連合」
昨年民主党連立政権が発足した。そして多数の民主党関係者が取調べを受け、連合に緊張感を与えた。これが刺激となり連合のメーデーは大きく進化した。
一方の全労協は刺激がないままに二十年を経過し、目的を欧米化に劣化させた。それでは丸山真男と同じである。第二次世界大戦は欧米の植民地獲得戦争の結末であり、日本が軍国主義となったのは欧米猿真似の結果である。ところが丸山真男は日本のものはすべて軍国主義で欧米のものが正しいと奇妙なことを主張した。
全労協は伝統勢力をも取り込む努力をすることで緊張感を受けるべきであろう。伝統勢力という言葉に抵抗があるのなら農村、町工場、個人商店といってもよい。労農工商の合作である。そしてこれらは丸山真男が嫌った勢力である。
(國の獨立と社會主義と民主主義、その十)へ
(國の獨立と社會主義と民主主義、その十二)へ
平成二十三年メーデーへ
メニューへ戻る
前へ
次へ