九百四十 ミャンマー経典学習会、大念住経(マハサチパサーナ・スッタ)
平成二十九丁酉年
二月十三日(月)
セヤドー(僧侶の尊称)が昨年十二月ミャンマーに帰国し此の度日本に戻ってきて、昨日久しぶりにミャンマー経典学習会が開かれた。昨年十一月に増上寺でミャンマー祭りがあったときに、私はセヤドーから直々に大念住経が始まるので参加するやう声を掛けていただいたので、今回は絶対に参加する予定だった。
参加者は多くセヤドー、通訳さんを除いて十三名くらいだった。大念住経は興味ある人が多いのだらう。ミャンマーのパオ森林僧院で修業されたマハーカルナー比丘が四年前に帰国し、パオ森林僧院日本本部長として瞑想会を毎週日曜に開催するやうになり、経典学習会の参加者が数名に激減した。ところが昨年十一月にマハーカルナー比丘のホームページからパオ森林僧院の記述がすべて消されたさうで、或いはそれも関係するのかも知れない。
二月十五日(水)
私は今回新たな試みをした。今までは千川駅から歩いたが、小竹向原から歩いてみた。地図上の距離は同じだが小竹向原は道順が複雑だ。環状七号線を使へば簡単だが、自動車の排気ガスがあるので今まで歩かなかった。しかし日曜は車が少ない。台橋通りと云ふ裏道を歩いて環状七号に出てバス停二つ分くらい歩き、川越街道の先を右折したら無事着くことができた。帰りは石神井川に沿って歩き途中の商店街風の道を歩き、住宅公社に沿ひ道を尋ねたところ小竹向原に行く人だったのでその人に付いて無事到着した。
小竹向原は急行が止まるので便利だ。これで、(1)千川で降りてLifeで昼食を買ひ公園で食べる、(2)千川で降りてサミットで買ひ食事コーナーで食べる、(3)自宅で昼食を早めに食べ千川で降りる、(4)自宅で昼食を早めに食べ小竹向原で降りる、と進化した。
二月二十日(月)
私のメモによると、次のお話があった。「」内は経典。
大念住経は経蔵の長部経典。Mahaは大。satiは記憶、心に気付きを入れてsatiになる。patthanaは場所。
「有情」とは阿羅漢以外。
何が必要か(1)「努力」、(2)「正しく知り」、(3)「念」=気付き。何が必要か八聖道にも入っている(1)正精進、(2)邪見、邪心が無く正思惟、正見、(3)正念、正xx(聞き取れなかった)。
「(受に関する)」は、受は受とみる、受とは喜び、苦しみ(例、足が痛く、立って楽になる)。「(身に関する)」は、体は体としてみる。「(身に関する)」は、心は心とみる。「(法に関する)」は、心の中の思惟や精進。個々については後のほうで出てくる。
四つの念住->七つの効果。(1)すべての生き物の心を清めることができる、(2)心配を乗り越えることができる、(3)悲泣を乗り越えることができる、(4)心の苦しみを乗り越えることができる、(5)体の苦しみを乗り越えることができる、(6)知恵を得られる、(7)涅槃に行ける。
目を閉じるとは書いてないが、見えてしまふので閉じたほうがいい。
以上のお話があった。
三月二十二日(水)
三月の学習会では次のお話があった。私のメモでは
「全身を明確に知って私は出息しよう」の全身とは、入息や出息の、最初から最後までの意味で、体全体ではない。アナパナの勧めの部分だから。
「他の身」について出息、「自己」「他己」を中、外の意見もある。
「自他の身」の自他を同時に観察はできない。
「生滅の法」の生滅は、たまには生じる原因、たまには滅する原因をさぐる。
「滅法なりと随感し続け」は三つのどれかがないとできない。入出息の原因はおなかがあり、気持ちがあり、空気がある。
「身(呼吸)のみあり」は、私も、私のものも、他人も、他人のものも無くなる。(1)随感、(2)最初と最後、(3)最初と途中と最後、(4)入息、出息のそれらを感じなくなるまで行なう。
第一から第四禅定まで行ける。止行-サマタ、アナパナに向かう。
「念の部(増大の)ためになる」は、愛着と誤った考えがなくなる。
三月二十五日(土)
教典説明の最後に、呼吸の観察による止観について次のお話があった。私はこの辺りはまったく判らない。
第一禅定、心と体があることを観察。原因と結果があって、心と体が出てきた。無常、苦、無我であることが判れば阿羅漢になれる。禅定に留まらないこと。
アナパナで禅定の手前で止まって観察する方法がある。地水火風とxx(聞き取れなかった)。二つがルパ。鼻の入口で入息出息が判るのが心。
パサ(接触)が判ったのがナマ(受)。鼻に風を感じ、これは体の一部なのでルパ。空気もルパ。判ったのは観察したから。
さっきは禅定から観察。今回は禅定に行かず観察。原因と結果、無常、苦、無我が判れば阿羅漢になれる。
ここで休憩の時間になった。再開し質問の時間に次のお話があった。
呼吸を感じなくなる、静かに。ニミタ(いろいろな色を見つけ)禅定に。あるいはその手前で止めてアナパナに。
呼吸の元は体、ルパ(識)。風もルパ。呼吸をしてゐるのが判るのがナマ(心)。鼻先に接触で判るのもルパ。接触したのはサパ。接触が判るのはナマ。受も入ってゐる。ルパが二つとナマが三つ。ルパとナマがあることが判り、区別が判ると知恵。
呼吸は名前だけで空気、風。感じるのは鼻先。鼻先も名前だけでやはりやはりルパ。
ナマも接触が判る、名前だけでナマ。
なぜルパとナマは現れたかを見ると、原因と結果がある。それが判るとルパとナマは無常。永遠に続かないから苦。ルパとナマを無くさうとしてもできないし、歩うにしようとしてもできない。無我。
それが判らないと最後のディパサナの知恵を得たと云へない。知恵を得ると割愛、煩悩が無くなる。
ミャンマーには二つの宗派があり、少数派のほとんどは戒律重視が多数派とは異なるが、それ以外に二つの止観(瞑想)派を内在する。オバサ・セヤドーは二つの止観派ではないが、そのセヤドーからの止観について貴重なお話であり、私の頭ではまったく理解できなかったが仏教界にとり貴重な情報なのでメモのまま掲載した。(完)
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