九百三十九 二・二六事件と石原莞爾(「敗者の日本史19」を賞賛)

平成二十九丁酉年
二月十一日(土)
私は最初石原莞爾に悪い印象を持ってゐたが、石原の著作を読んでそれが間違ひだと判った。悪い印象を持った理由の一つに二・二六事件を弾圧したことがある。最初は出世欲に駆られたのだらうと推定したが、それは前回の特集で間違ひだと判った。
しかしもう一つ残った。石原莞爾の思想から考へて、二・二六事件を弾圧する側に回る筈が無い。前回そのことを見つけられなかったが、今回それに答へる書籍を見つけた。吉川弘文堂から出版された「敗者の日本史19 筒井清忠『二・二六事件と青年将校』」である。
この本を見つけたのはまったくの偶然だった。図書館に大化改新から現代まで20冊の歴史書が並んでゐた。その19を借りたところ、たまたま石原莞爾の記述が多かった。「敗者の日本史」とは奇妙な題だが吉川弘文堂によると
最終的には敗者となったにせよ、(中略)これまでの歴史の見方とは違う、豊かな歴史像を描き出すことで、歴史の面白さを伝えることができると考えています。
この趣旨なら大賛成だ。「敗者の日本史」と云ふから、日本が悪くて西洋が正しいと云ふ丸山眞男ばりのシリーズかと心配した。

二月十二日(日)
前回の特集では永田鉄山系が正しいと書かれた本がほとんどだったので、陸軍省軍務局長の永田、参謀本部作戦課長の石原を両輪とすれば朝鮮半島や満州の自治が達成できると云ふ期待から、石原こそ永田の直系だとした。
しかしその後、幾つかの書籍を散発的に読むうちに、統制派と皇道派は一つだったものが分裂したもので従来の陸軍の伝統を断絶させ、この時点でクーデターと同じ影響を陸軍、明治政府にもたらしたことに気付いた。今回の書籍は平成二十六年に出版されたもので
昭和四年(一九二九)五月、新たな結社一夕会が結成されたが、それは二葉会と木曜会の合併で(中略)河本大作・永田鉄山・(中略)・東條英機・板垣征四郎・(中略)・石原莞爾・(以下略)らであり、昭和の陸軍を動かす中枢的人物が結集している。ただ、例えば梅津美治郎はこういう組織に加わっておらず(以下略)。逆に言うと永田はこういうことに積極的な人であり、結果的に陸軍の派閥化を促進した人なのである。

一夕会は人事の刷新と、荒木、真崎、林の三将軍をもりたてることのほかに、満蒙問題の解決を決議した。その後発生した張作霖爆殺事件について
二葉会にせよ一夕会にせよ、彼らの会合ではしきりに張作霖爆殺事件をめぐる河本の処分問題が議論され(中略)省部の中枢幕僚の彼らが河本処分反対で動き回っていたのである。

この事件について加登川幸太郎は
満州某重大事件のあと始末で、本当に大佐、中佐クラスの人たちが団結をして、内閣をつぶし、元の長閥の親玉の田中義一に反抗して、遂には死なしてしまった。こうしたところから陸軍はおかしくなってしまったと私は思っておる。

筒井さんは荒木・真崎ら九州閥将官、一夕会、青年将校の三グループが荒木陸相の登場を歓迎したとするが、荒木は期待はずれだったと云ふ。そして
荒木は陸相を林銑十郎に譲ることにした。(中略)しかし、林は(中略)自己のヘゲモニー確立に動く。そのために登用していったのが、荒木に失望して離反し始めていた永田らのグループであった。これが統制派と呼ばれるものなのである。


二月十八日(土)
一般には、昭和天皇は二・二六事件で信頼する元老を殺されたため激怒して決起部隊の鎮圧を命じたとされる。それに対してこの本は
内大臣亡き後の実質的内大臣とも言うべき、木戸幸一内大臣秘書官長が見事な対処策を提案する。それは、、現内閣の辞職を許さないということと、天皇の方針を反乱の鎮圧一本に絞るということであった。暫定内閣を作るということになるとこれが取引の道具になり「実質的には反乱軍の成功に帰することになる」(『木戸幸一関係文書(以下略)

かうして決起部隊は失敗へと転落していった。
残されたクーデター成功の可能性は軍内の中堅幕僚クラスから決死回生のプランが提起され、それに上層部が動かされることであった。それが、参謀本部作戦課長兼戒厳司令部参謀部第二課長石原莞爾大佐をめぐる動きであった。

従来、決起軍の殺害リストに石原の名もあった、石原は反乱軍弾圧を唯一はっきりと主張した、真崎とは仲が悪かった、と云ふエピソードがあちこちの本に書かれた。前回の調査で気付いたのだが誰かがちょっとしたエピソードを書くと、別の人がそれに尾びれを付けて書き、別の人が更に尾びれを付ける、と云ふことが繰り返される。前回の調査で私が石原を統制派としたのはそれが原因だった。或いは小説は作り話だから作者が勝手に物語を作る。それがいつの間にか別の本では本当の話のやうに書かれる。
磯部による古荘幹郎次官への短刀での威圧もあって、陸軍省の職員を軍人会館に集める命令が出された時に、石原はこれに賛同し、参謀本部職員は偕行社に集まるよう命令を出している。山本はむこれを「容易ならざる英断なり。(中略)城明渡しなり。この勇断を両官に感謝すると共に同志将校の士気けんこー(ママ)たり」(括弧内略)と激賞している。こうして石原は青年将校のために相当尽力することになるのである。
具体的には、陸相官邸で山口一太郎大尉と話した時、二人で「後継内閣」について相談し、山口が柳川平助中将を推したのに対し、石原は板垣征四郎少将を陸相に推している。

山口は本庄繁の娘婿で、事件当日の朝五時、山口から侍従武官長の本庄に連絡を入れ、本庄は宿直の侍従武官に電話し、侍従経由で五時四十分昭和天皇に伝へられた。本庄と板垣は満州事変のときの司令官、上級参謀。ここは石原の人脈で動いた。この本は続いて次の一文を書いたため、信頼が揺らぐ。それは
ショックを受けた石原は早くから青年将校に有利な新内閣のことを考え初めていたのである。

これはその前に陸相官邸で石原が
「白雪の鮮血を見驚いて」、「誰をやったんだ、誰をやったんだ」と叫んだ石原に、山本が「片倉少佐」と答えると「驚き黙然たり」という(山本又、一二五-六頁)。こうした言動から見て、石原は青年将校達の行動と決意に強烈なショックを受けたと見て間違いない。

とあることの続きだが、陸相官邸前の白雪に鮮血があれば驚くのは当り前だ。しかしそれでショックを受けるとは考へられない。平時に陸相官邸に鮮血があればショックを受ける。しかし既に高橋蔵相を始めたくさんの死傷者が出た。片倉は頭蓋骨で弾が止まり手術で回復するからショックを受けるはずがない。不用意な一行で信頼性が揺らいだ。

二月二十日(月)
二十六日夜(中略)橋本欣五郎大差が陸相官邸に顕れ、(中略)二十七日午前一時頃帝国ホテルで石原・満井中佐との三者で事態の収拾につき会談が行われた。真崎のかねてからの石原も巻き込んだ橋本包摂工作がこういう形で芽を吹いたのである。
石原・橋本・満井の三人で相談した結果、”石原を通じて天皇に反乱軍将兵の大赦を奏上、これを条件に反乱軍は撤退し、その上で軍の力で革新政権を作る。その際の方針は、(1)国体の明徴、(2)国防の強化、(3)国民生活の安定とする”というプランが出来上がった。
しかし宮中の空気は反乱軍に不利となり、石原は証人尋問で、内閣に持出された際一蹴されたと述べてゐる。

二月二十二日(水)
村中は陸相官邸に来合せた満井中佐に、蹶決部隊の現位置占有が「維新に入る前提」であり「全国に維新の気運を作ることになる」という意志を上司に伝達するよう依頼した。これに対し満井は「昨日来石原大佐とも奔走し今勅語が下る一歩手前まで来て居るのだ」「骨折って見る」と答えた(以下略)。
こののち
川島陸相が来合せたところで、石原起案の上奏案を香椎戒厳司令官は提議した。(中略)「流血か大詔か」というのであるからこれを上奏されれば天皇もかなり抗しにくかったであろう。(中略)しかし、杉山参謀次長がまず反対し、川島陸相も反対したので香椎もこの上奏案を断念し「決心変更、討伐を断行せん」と言明した。青年将校サイドもしくは満井からすれば香椎のもう一押しが足りないということになるが、杉山・川島からすると天皇を苦しめるわけにはいかないということであろう。
筒井さんはこの点について
三項目の中身は、ほとんど帝国ホテルプランの再現であったことは明白であり、石原がこのプランを現実化しようと非常に青年将校寄りで動いていることは注目すべきことである。
付随して述べておくと、石原がこの点に力を入れていたことは以下のことからも確認できる。この頃、磯部が戒厳司令部を訪れ石原・満井に会っているのだが(中略)石原・満井は磯部に握手を求め「君達の意志はよく判って居る。君達の悪い様にはせぬ(以下略)
これが撤退説得のための虚言でなかったことは、鎮圧後に分かった。すなわち、事件後の三月二日に木戸幸一那須大臣秘書官長にもたらされた「陸軍の意向」はほぼ(1)国体の明徴、(2)国防の強化、(3)国民生活の安定の三点であり、首相候補者に山本英輔の名も出ているので、石原の意向が強く働いていると見られるのである。(括弧内略)。そして二・二六事件後にできた広田内閣の七大国策に「国民生活の安定」と「国防の強化」が入っているので、これも当時参謀本部で強い影響力を持っていた石原の力によるものと見られる。


二月二十八日(火)
二十九日戒厳司令部は攻撃開始を午前九時と下達、「下士官兵に告ぐ」といふビラと「兵に告ぐ」のラヂオ放送が行はれた。
こうして、帰順の方向で将校たちは陸相官邸に集まることになったのである。この時、栗原が柴有時大尉に、石原莞爾大佐を呼んできて欲しいと依頼した。石原は来なかったが、返事は「蹶起将校今後の処置は自決か脱出の二途あるのみではあるが此回の挙により兎に角維新の「めど」はついた」というものであった(括弧内略)。
香田は「維新の曙光が見えた」という石原の言で「残念ではありましたが多少満足し」たとしており(括弧内略)、この時点で青年将校たちが最後に信頼して望みを託したのが石原だったわけであり、それだけ石原の青年将校寄りの姿勢が青年将校達に感じられていたということである。
陸軍上層部は最初青年将校に同情的な人が多かった。しかし昭和天皇の強い意向を知ると、冷たい態度に豹変した。青年将校が石原を頼りにしたのは信仰から来る人間性ではなかったか。上層部のほとんどは家に帰れば先祖代々所属する寺があり宗派があるはずだ。しかしこの当時は国家神道が精神支柱で、しかし神道は祭祀であって宗教ではないとされた。それが先の戦争に繋がり、この時は青年将校たちから信頼されなかったのではないのか。因みに戦後は神道が国家から独立し宗教法人となり、今では地域と住民の心の安定に大いに役立ってゐる。憲法改正の先頭に立つのも今ではよいことだ。私も神社に置いてある憲法改正の請願書に署名した。それだけ世の中が悪くなり神社が重要になったと云へる。
この後、軍法会議は弁護人無し、非公開、民間人の北一輝にも管轄権が及ぶと云ふ極めて異例のものとなった。

三月一日(水)
最終章の「二・二六事件をめぐる論点 エピローグ」は貴重なことが二つ書いてある。日華事変(この書では日中戦争)が始まり石原が左遷になったあと
統制派として結集していた人々が結果的に軍の要職についているが、かつてのような共通の意志や結束があったわけではないからそれらは旧統制派グループと呼ぶべきであろう。この点、永田存命時のグループを「永田派」と呼ぶことを主唱している北岡伸一氏の提言は正鵠を射ていると言えよう(括弧内略)。また石原派と東条派の抗争は根深く続いたので、"二・二六事件後の陸軍は統制派が支配した"というような言い方は全くの誤りである。
この議論が出る前の、統制派対皇道派の争ひが陸軍全体といふ前提だったから私は石原を統制派に分類した。しかしこのやうな分類であれば同感だ。その一方で永田派以降は江戸時代末期からの伝統が断絶した。その弊害が日華事変から先の戦争までに現れることになる。

三月二日(木)
二つ目には
『改造法案』的な社会の平準化の発想は、青年将校や北一輝が処刑されたからといって消えたわけではない。(既述のように『改造法案』中の国内改革プランの原型はかなりの程度、明治三十六年<一九〇三>の『社会民主党宣言書』によるものであり、また北自身記しているように明治維新の「四民平等」の精神を受け継ぐものであった)。
それは岸信介等の革新官僚や一部の軍人たちに受け継がれて、統制会、小作人の地位向上、自作農創設、厚生省設置(保健所・妊産婦手帳創設)、国民健康保険制度、労働者年金(厚生年金)保険制度、食糧管理制度、配当制限制などの戦時の資本主義の規制や弱者保護の諸改革になり、さらに財閥解体、農地改革などの戦後改革や新憲法にまで繋がっていくのである。
(前略)「財閥の転向」と言われた財閥の社会政策的施策を導き出すなどの、クーデター事件のインパクトによるところがあることも無視はできない。
戦後の施策のうちどれがGHQの偽善で、どれがクーデター事件のインパクトかは、今後精査する必要があると思ふ。(完)


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