九百十 ミャンマー祭り(最至近距離で安倍首相夫人の出演を観た)

平成二十八年丙申
十一月二十六日(土)
本日と明日の二日間、増上寺でミャンマー祭りが開催される。私がよく参加する経典学習会のミャンマー寺院も昨年に引き続き出展するので、早速出掛けた。ここで思ひがけない機会に出会った。何と安倍首相夫人の出演する催しを最至近距離で観た。
安倍首相夫人が出演すると判ってゐれば、遠慮して後方に座った。「寺子屋で学ぶ10人のこどもたちと昭恵夫人」と云ふ題なので、十人の子どもが出演し首相夫人の活動をビデオで放映するのだらうと思って最前列に座った。一昨年に出演されたときは整理券を配布したからだ。それでも中央付近に座ることはせず、遠慮して端のほうに座った。
ところが始まると、舞台上の私の前に首相夫人が立った。私が最前列に座るのは理由がある。私は目が悪く、しかし強い眼鏡を掛け続けると度数が進む。だから普段は弱い眼鏡を掛ける。目の前に遠くの景色しかない場合にのみ強い眼鏡を掛ける。だから二列目以降に座ると前の人の頭が見えてしまひ強い眼鏡を掛けられない。弱い眼鏡で話を聞くと話の内容があやふやになってしまふ。
会場で最も至近距離は私ともう一人、通路をはさんだ隣の席の女性だった。この女性が催しの最後のほうで舞台に上がり首相夫人の隣に立った。ミャンマーの国民的歌手だった。(写真へ、左から安倍首相夫人、国民的歌手、寺小屋の生徒十人。後列は杉並区立の中学校生徒)

十一月二十七日(日)
この日はまづミャンマー寺院の出展場所に行った。昨年と同じく学習会を主催するIさん、浄土宗の僧侶、オバサ・セヤドー(セヤドーは僧侶への尊称)の三人がテント前で話されてゐたので私も加はった。オバサ・セヤドーは日本語で日常会話ができるまで上達された。学習会のときはミャンマー語で話される。今年はカレンダーを500円で販売してゐた。このカレンダーは日本の祝日が入る上に、満月と新月の日は白と赤の印が入り、それまでの毎日も何日目か(と思ふ。新月後が同じ文字の順番だから)がミャンマー語で入る。主要な仏教行事のある日を年に五日くらいミャンマー上座部仏教教会のマークが入る。
昨年と同じく会場にはもう一つのお寺も出展した。門司の世界平和パゴダで、こちらは戦後まもなくミャンマーで戦死した戦友たちの慰霊のためとお世話になったミャンマーの人たちへの感謝のため、帰国復員した人たちが建立し、常駐のミャンマー人僧侶が優秀な方だったので大いに栄えた。高齢で遷化(僧侶が亡くなること)された後は無住の寺となり、復員者や遺族も亡くなる方が多く老朽化が進んだ。ミャンマー仏教会がそのことを知り僧侶を派遣してくださるやうになったが、戦死者の慰霊が目的の日本人理事側と、布教に熱意のある僧侶側に意見の相違があり再び無住になることもあったさうだ。今年は2人の僧侶が在住し、昨年は安倍首相夫人が訪問し講演された。私も一度訪問したいものだ。
今年はミャンマービール(500円)を飲んだ。瓶と缶があるので瓶にした。もう一つ、Dagon(500円)といふヨーロッパのビールをミャンマーでも生産し、缶にミャンマー語で書いてあるからミャンマー人向けなのだらう。こちらは「EXTRA STRONG」と書かれアルコールは8%、味はヨーロッパ式の黒ビールで味が濃い。私はこちらのほうが好きだ。
寺小屋の授業実演を慈雲閣の二階で行った。最初は国語で日本で云ふアイウエオに当たる文字を皆で発音して読む。次の授業は先生が交代し音楽だった。メロディーがイギリスのものなので、それで果たしてよいのか。日本も事情は同じだが、まづその国の音楽を習ひ、その次に西洋の音階や発声法やリズムはかうだと教へないと、文化を破壊することになる。寺小屋は普通の小学校と同じ課程だからこのやうな授業になるが、日本では西洋音楽を教へた結果、西洋音楽に留まらず軽音楽などに向かふ。その原因は西洋音楽を教へることにより音楽が西洋の猿真似になり、軽音楽に行くためだらう。
授業の最後にお経を唱へ三拝した。寺小屋だからか、或いは国民の多くが仏教徒だから公立学校でも行ふのかは判らなかった。

十一月二十八日(月)
浄土宗の僧侶については私も今回始めて詳細を知った。十年以上前にIさんと経典の学習をした。そのときは翻訳の仕事をしてゐて、Iさんは翻訳の方法を教はったさうだ。お寺の息子なのでお父さんの跡を継いだ。お父さんは二千五百年の結集(けつじゅう)のときに全日仏の留学僧としてミャンマーに渡り、まづ沙弥の修行をして、次に比丘として修行した。
私の勤務する会社の近くの日本寺院にタイ式の建物がある。数年前にお話を伺ったところタイに留学して修行したとのことだった。帰国後に、日本の大乗仏教のほうがいいと感じる人もゐよう。しかし上座部仏教に敬意を表してタイ式の建物を建てたり、御子息がミャンマー仏教と関係するなど、多くの留学僧は後者だと確信する。
私はタイの上座部仏教から入ったから、ミャンマーでも標準時との補正をするのかと思った。例へば東京は明石より東だから十二時前に太陽が真上に来る。タイでは地名を書いた補正表がある。ミャンマーでも同じかと思ったが、標準時で昼食を済ませるさうだ。戒律のタイ、止観(瞑想)のミャンマーを実感する一幕だった。

十一月二十九日(火)
「寺子屋で学ぶ10人のこどもたちと昭恵夫人」では、首相夫人の司会で十人の児童が自己紹介のあと、好きな科目と将来何になりたいかを訊いた。女子児童が三人(或いは二人だったか)、英語が好きで将来はCA(客室乗務員)になりたいと答へた。これは航空機で来日したからだと思った。十人が答へた後に、首相夫人もミャンマーで将来何になりたいか訊くと、先生、軍人、僧侶など五つ(残りの二つも話されたがメモを取らなかったので思ひ出せない)の答が返ってくるが航空機に乗ったのでCAが多かったと私と同じ分析をされた。
一人の男子児童がITエンジニアになりたいと答へたので、コンピュータ業界の人間として救はれる思ひだった。

十二月一日(木)
寺小屋の児童は東京ディズニーランドと杉並区立阿佐ヶ谷中学校を訪問した。後者では「上を向いて歩かう」をミャンマーの児童が日本語、日本の生徒がミャンマー語で練習した。それを舞台で披露した。ミャンマーの国民的歌手も登壇した。ミャンマーの児童が来日して一週間くらい経つと思ふ。一週間で最大の、ミャンマー祭り二日間でも最大の晴舞台となった。

十二月二日(金)
かつて西武線中井駅周辺にリトル・ヤンゴンと呼ばれる街があった。ミャンマー仏教のお寺があり、その周辺にミャンマー人が居住し、ミャンマー料理店が幾つもできた。その後、高田馬場に移転した。今までさう信じてきた。しかし疑問点があった。お寺はどこに移転したのか、なぜ中井から跡かたもなく消えてしまったのか。また板橋にもミャンマーのお寺があるが周囲にミャンマー人が住んだりミャンマー料理の店はない。
今回調べてみると、新たな事情が判った。まづお寺があるからミャンマー人が集まったのではなく、ミャンマー人を世話する夫婦がゐて、不法滞在や滞在期間を超過したミャンマー人が移り住み、お寺も短期間だができた。ミャンマー料理店もたくさんできた。しかしリトルヤンゴンと呼ばれて有名になると不法滞在者が多いのでまづいことになった。そして消滅した。
高田馬場については、写真で見るとかつては路地の両側がすべてミャンマー料理店になるほど繁盛したが、次第に閉店し今では十数店ほどあるやうだ。珍しがって日本人も来店したが次第に飽きたのだらう。大塚にもミャンマー料理店があるさうだが、大塚は知らなかった。現在板橋にあるミャンマー寺院もかつては大塚駅前のビルの一室だった。この時代は私が出入りするやうになる以前の話だ。(完)


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