八百七十 心が過去に行かない止観(瞑想)

平成二十八年丙申
八月七日(日) 七月の止観会
ミャンマーから招聘した専門僧による止観(瞑想)会に出席して一カ月弱が経過した。止観専門僧とは云へ普通の上座部仏教の僧侶だ。私が出席するのは今年で三回目だと思ふ。或いは四回目かもしれない。今年は大きな収穫があった。「瞑想すると心が過去に行きたがる」といふ話だ(在日ミャンマー人向けの止観会に参加へ)。
確かに心は過去へ行きたがる。意図的に未来に行かせてみた。金色の仏像に囲まれた自分、そんなものを想像してもすぐ元に戻る。行ったことがないのだから想像しても数秒で終はる。心は今に留めるのがよいやうだ。

八月二十日(土) 過去と未来
インターネットで調べると精神科医の泉谷閑示氏が図を使って説明されてゐる。雪ダルマの形の頭の部分が頭、胴体の部分が心、胴体と接続し雪だるまと同じ高さのスノーボード状のものがありこれが身体。動物は心と身体だけなのに、人間は頭が発達した。
「頭」は理性の場であり、コンピューターのような働きをする場所で、情報処理を行ないます。すなわち、記憶・計算・比較・分析・推測・計画・論理思考などの作業をします。シミュレーション機能を持っていて、「過去」の分析や「未来」の予測を行うのは得意ですが、「現在」については苦手で、「今・ここ」を生きることはできません。(ですから、「過去」の後悔や「未来」の不安などの感情は、「心」由来ではなく「頭」由来なのだということになります。)
心が過去や未来に行くと、心ではなく頭になってしまふ。上座部仏教では体の動きに注目する方法が多い。大乗仏教では曹洞宗が非思量を心がけ、臨済宗では公案を解くことに集中する。あと曹洞宗や臨済宗は足の痛さに耐へることに心を集中する。いづれも心を現在に留める工夫だ。

八月二十一日(日) 深呼吸
開始時に深呼吸をすることと、途中でも呼吸に注目することは、科学的に見ても精神安定によいさうだ。そのやうな記事を何かで読んだ記憶がある。だからと云って、仏教は科学的だと短絡させてはいけない。昔は科学と宗教に境界がなかった。科学的なことも宗教的なこともどちらも含まれてゐるが、二千五百年続いたことを信じるといふ素朴な態度がよい。(完)

追記九月九日(金) 三学
仏教には戒定慧の三学が根本にある。私がこれまで、すべての宗教は止観(瞑想)の方法の違ひから生じたものだと提唱してきたのは、上座部仏教との縁がまづ曹洞宗総持寺の日曜参禅会(今は廃止)に始まったからだった。ここで三学に立ち返ると、止観は三学のうちの定だ。戒は守るべきものだ。慧は釈尊の説いた経や長い歴史のなかで作られた膨大な経典や開祖、宗祖、派祖などを学習することで得られる。
以上の三つをまとめると、戒定慧は正直で利他の心を持つことだと理解できる。更にすべての宗教は正直で利他の心を持つことだと定義ができる。止観の専門僧の指導を聴くことで、すべての宗教をまとめるもう一つの方法が判った。


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