八百五十八 二人の東京大学教員の講演を聴いて(1)一人は極めて有益、(2)一人は本質を述べず極めて時間の無駄

平成二十八年丙申
七月二十日(水) 両極端だった二人の東京大学教員
七月の浅草寺仏教文化講座は、第一講座が「人と自然の共生を考える~地球環境問題、再生可能エネルギーの今後~」と題して東京大学教養学部客員准教授の松本真由美さん、第二講座が「日本中世の社会と宗教」と題して東京大学史料編纂所教授の本郷恵子さんで行はれた。
このうち第二講座の本郷恵子さんの講演は極めて有意義だった。その一方で第一講座の松本真由美さんは本質を述べず極めて時間の無駄を感じた。私は「極めて」といふ語をほとんど使用しないから、二人の話がどれだけ両極端だったかよく判る。なぜさうなったのかを考察したい。

七月二十一日(木) 本郷恵子さんの講演、1「日本の中世とは」
「日本中世の社会と宗教」の講演は三つの章に分れ、配布された資料を抜粋すると1「日本の中世とは」は
院政、荘園公領制(国土を分割して利権化、重層的に支配)
保元の乱
公家政権・・・天皇×院(上皇) × 武家政権・・・将軍×執権×有力御家人
→権力の多元化 国家や王権等、どこに権力や支配の中心があるのか不明
聖と俗・来世と俗世 混乱し、錯綜した世界における宗教の役割とは?

説明の中で「誰が民衆のためにやってくれるか」と話された。これは貴重な情報だ。1の意義はこの一言に尽きる。

七月二十三日(土) 本郷恵子さんの講演、2「勧進と結縁」
2「勧進と結縁」は配布された資料を抜粋すると
政権による租税の徴収→儀礼の実施(大嘗会・年中行事)・造営事業(内裏・寺社)
『続古事談』・・・白河院、法勝寺つくらせ給て、禅林寺の永観律師に「いかほどの功徳なるらん」と御尋ありければ、とばかり物も申さで、「罪にはよも候はじ」とぞ申されたりける。
  @権力者による信仰への独善的なアプローチ・・・剰余の蕩尽・民衆からの搾取
『続古事談』の解説では、白河院が独り占めし民衆から搾り取るので「よもや罪にはならないでせう」と答へた。
社会における公共的役割・・・宗教が担う @剰余を吸い上げ、社会に還元する=勧進
勧進上人による公共事業・社会事業・富の再配分・公共の福祉
・道路・橋等の土木工事
・寺院の修理・造営
・病者・貧者の救済
公共的役割について、権力者はやらなかったといふ解説があった。これは1「日本の中世とは」の最後にあった「誰が民衆のためにやってくれるか」といふ説明と同じだが、重要な話は再度出てきてもよいことだ。
「剰余を吸い上げ」について、強制ではないといふ話と、お金のない人は労力でもよいといふ説明があった。勧進上人といふのは、このやうに呼ばれた人たちといふ解説があった。
人々を自発的な信仰に導き(結縁させ)、作善を成させる
 身分・財力を問わず、すべての人に平等に向き合う
 →心の平安・往生の確信
    来世における積立貯金  募金活動・基金の形成→資金の運用=金融活動
 世俗の財貨を仏物と成し、それらの得(徳)を分け与え(貸し付け)、増やすことによって、徳(得)を積む
  勧進活動を支える金融的技能・経営手腕
金融活動は物欲のために行ってゐる訳ではない、得と徳は交換可能といふ解説があった。以上は本日の講演の最も重要な部分なので、前文を引用した。このあと東大寺勧進上人 重源による大仏の再建に法皇を始め貴賓を問はず洛中諸家を廻りて請うた資料と説明があった。

七月二十三日(土)その二 本郷恵子さんの講演、3「娯楽と救済」
3「娯楽と救済」はまづ枕草子を引用し
説教の講師は顔よき。講師の顔を、つとまもらへたるこそ、その説くことの尊さも覚ゆれ。(以下略)
を引用し
芸能者としての説教師・・・聴衆を思いのままに感動させ、泣かせてこそ一人前。施主の要請に応じて、各地に出向き、説教を行い、宴席に侍る。
枕草子の別の部分も引用し
ある者、子を法師になして「学問して因果の理をも知り、説教などして世を渡るたづきともせよ」と言いければ、教えのままに説教師にならむために、まず馬に乗り習いけり。
→仏事ののち酒などすすむることあらむに、法師の無下に能なきはすさまじく思うべしとて、早歌ということを習いけり。
→説教習うべき隙なくて、年よりにけり。
世を渡るたづきとは生活の糧といふ説明があった。このあと漁師たちに説教師が、近江の湖の魚を捕ることは天台大師の眼のチリを取ることで功徳となる、と云ったので随喜して布施物が多かった、北国の漁師たちに、網を持ち「アミアミ」と云へば波がタブタブとなり、いつも阿彌陀佛と申すことで有り難い、と云ったところ悦び一期の財宝をあげて布施したといふ、『沙石集』巻六 随喜施主分のことを紹介された。

最後に全体の結論として
政治や権力が救いとれないものを救うのが中世の宗教だった。
衣食住が足りれば人間なのか。それ以上が必要。心の平安、社会の安定を与えてくれたのが知友性の宗教。
中世に興味を持ってください。
と話されて、充実した一時間の講演を終了された。

七月二十四日(日) 松本真由美さんの講演
第一講座松本真由美さんの講演は極めてよくない。まづ家電リサイクル法に反して廃棄物が非先進国に輸出され高価な金属などが手作業で回収されることを禁止することについて、貧しい人の仕事を奪ふといふ声もあったがと前提を付けて紹介した。そもそも家電廃棄物が輸出されることはここ二十年ほどの現象だ。その業務に従事する者に別の仕事を与へることを議論すべきで、貧しい人の仕事を奪ふかどうかは議論の対象にならない。
次に3R(reduce、reuse、recycle)をできるだけすると述べたが、「できるだけ」を付けると人によっては何もしない。どこまで減らしてどこまで何を再利用してどこまで何をどうやって再循環させるかを云はないといけない。
世界でうなぎが激減してゐることについて、或る東京大学教授の名前と顔写真を映しながら、うなぎは晴れの日のごちそうだといふ発言を紹介した。そんなことは当たり前の話でわざわざ教授の顔写真や名前を出す話ではない。その人が生物、日本文化史、海洋のうちのどれかの専門ならまだしも、確か宇宙か気象の専門だった。
白砂青松が減少したことについて、原因は地元の人たちが枝や落葉を使はなくなったためで、人々の無関心と云はれたが、無関心だったのは学者だ。この状態が続けば白砂青松が激減すると指摘すれば、地元小中学校で使ふなり行政が撤去するなり方法はあった。学者の無関心が原因なのに「人々」のせいにするとは責任転嫁も甚だしい。
世界の工場と云はれる中国といふ発言もあった。中国に工場がたくさんあるからと云って中国が地球破壊をしてゐる訳ではない。中国の企業に製造を発注したり、合弁で進出する先進国(私は地球滅亡を先に進める国といふ意味で使用する)が悪い。
二酸化炭素の排出量の円グラフを見せて中国が多いことを示したが、人口一人当たりの排出量を示さないと意味が無い。一人当たりではアメリカが一番多い。非先進国(松本さんは発展途上国と云はれたが)で今後二酸化炭素の排出量が大きく増えるとも云ったが、これだと非先進国が悪いことになる。先進国は贅沢三昧の生活をして、非先進国は質素な暮らしをしろといふのは先進国側の身勝手な主張だ。
COP21で各国の代表10数名(といってもほとんど欧米)がカメラを向いて互いに握手する一斉写真が映し出された。温度上昇を2度以内、努力目標1.5度以内といふ話があったが、だからどうなのか。それで十分なのか不十分なのか、目標値がなぜ二つあるのか。一切の論評が無く写真を写すと、単に西洋人が主導する会議は正しいといふ宣伝にしかならない。日本は西洋技術を持ちながら、思考方法は西洋人とは異なるといふ利点を生かしてもっと発言すべきではないのか。さういふ論評さへ無かった。
次に、日本はエネルギー自給率6%、化石燃料を輸入といふ発言があった。この発言からは国内で化石燃料を採掘できる国は幾らでも消費してよいとしか取れない。
日本は地熱の資源が多い。しかし国立公園内、温泉業者との調整が必要。これ以上、自然を破壊することは反対だ。その前にエネルギー消費の削減といふ根本的なことをなぜ主張しないのか。それは松本真由美さんが西洋文明に毒されてゐるからだ。先進国でありながらアジアの発想を持つ日本の利点を生かさうとなぜ思はないのか。

このあと地元の少額出資による風力、木のチップ、温泉小規模水力発電の実際例を紹介したが、収支、出資内容など重要な説明はなかった。地元の出資でチップ作成や発電を行ったといふだけでは駄目だ。大幅な黒字にはならないまでも、このように継続できるといふ情報が重要だ。それが無ければ後に続く者が出ない。
最後まで聴いて、本質の話は何もなかった。地球温暖化は二酸化炭素が原因ではないといふ主張(例へば昨年四月に浅草寺仏教文化講座で講演した丸山茂徳氏)への反論であれば、色々な例を出すことは必要だ。しかし会場のほとんどの人が地球温暖化は化石燃料が原因だと思ってゐる。それなのにヒマラヤの雪や、シロクマや、それ以外の例を次々に挙げても意味がない。この人は例を挙げてから説明するのが目的ではなく、例を次々に並べることが目的なのだと判った。本質がない訳だ。

七月二十五日(月) 二人の講演を比べて
講演の良し悪しは、一番目に時間に対する内容量が適切だったかどうか、二番目に講演者の専門性が生かされたかどうかによる。実は本郷さんの講演でも私のメモ書きには、1「日本の中世とは」の後に20分(後から考へると司会の挨拶と三帰依文があるから実質15分か)と書いてある。ここでは「誰が民衆のためにやってくれるか」といふ貴重な指摘と、時代の特長である院政、武士の進出を話されたが、それだと5分が適切で15分は長い。更に院政、武士の進出は平家物語で誰でも知ってゐるので、それだけだと本郷さんの専門性が生きない。なぜさうなったのかといふ政治背景、更に末法思想に触れるとよかった。しかし最後に「誰が民衆のためにやってくれるか」といふ一言で、1章は挽回した。2章と3章は時間に対する内容量、講演者の専門性の両方とも優れた名講演だった。ちなみに1章で消費時間を記録したので、2章もその惰性で時間を計測してしまったが24分だった。2章が名講演だったので3章は記録を忘れたが残存時間だから16分であらう。

松本さんの講演は、時間に対する内容量と、講演者の専門性の、どちらも不適正だった。しかしそれ以上に重要なことは本質を理解してゐない。あと判りやすく話さなくてはいけない、といふと松本さんの話は判りやすかったではないか、と云はれさうだが本質を云はず例を挙げるだけだから判りやすく見えただけだ。一つ例を挙げるとポテンシャルと云ふ語を使った。会場は高齢者が多いからポテンシャルなんて語を使っては駄目だ。専門性のある話を判りやすく話すのが一番良いが、松本さんの話は専門性の無い話を判りにくく話した。あとこれは小さな問題点だが、立場に応じた話し方がある。わざと下手に話さなくてはいけない場合もある。それでゐて判り難くなっては駄目だが。松本さんの話を聴いて最初、国会議員立候補者なのかと思ってしまった。客員とは云へ准教授なのだから舌先滑らかに話してはいけない。(完)


東京大学批判その十六東京大学批判その十八

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