八百十九 新聞失格社会破壊反日パンフレット(偏向、本質を見ない、時代の差を考慮しない)

平成二十八年丙申
三月二十七日(日) 三つの駄文記事
「だまってトイレをつまらせろ」は余りにも悪質なので、今回から社会破壊反日新聞はパンフレット扱ひすることにした。社会破壊反日パンフレットの誕生だ。このパンフレットから記事を三つ指摘したい。まづは一月二十日の社会面(最終ページの一つ手前で、所謂三面記事)だ。生き地獄と言われた戦地といふ大きな見出しとともに、広告を除くとページの半分を占める。反日パンフレット社は戦争を批判する場合に、戦争そのものを批判することと、敗戦を批判することと、戦争犯罪を批判することの三つがあることを知らないらしい。新聞失格のパンフレット社なのだから仕方がないが。
社会欄の文章は、「生き地獄と言われた戦地」だから敗戦を批判しなくてはいけない。しかし反日パンフレットは漠然と文章を書いたから、米英仏が正しくて、日本は間違ってゐたといふ村山富市以降の偏向した平和運動と同じになつてしまつた。
その一方で次の文章をさりげなく入れてある。

45年2月28日。日本軍から「配給券を配る」と知らされ、指示された屋敷に向かうと約300人とともに地下室ですし詰めにされた。出入り口が施錠された直後に、大きな爆発音が2回。天上が崩れ落ち、一瞬で大勢の命が奪われたという。
(中略)
日本側の戦況が悪化の一途をたどるなか、ゲリラとの区別がつかなかったことで、多くの市民が犠牲になったと伝えられている。
ここで騙されないよう注意すべきは、(中略)の前はどこが本当でどこが推測なのか。なぜなら文の最後に「という。」と付いてゐる。或いは(中略)の後の文の最後には「伝えられている。」とある。何しろ慰安婦捏造記事を誤報で済ませ、しかも福島原発の誤報といつしよに発表して目立たないよう細工した反日パンフレット社だ。今回も「という。」「伝えられている。」を付けることで、将来ねつ造が明らかになつても誤報だとして逃げるつもりではないか。
もし記事が全部正確だとすると、これは戦争犯罪だ。なぜそこを指摘しない。反日パンフレットの悪質なところは三つを区別せず、しかも戦争そのものが悪いと批判する訳でもない。つまり米英仏は正しくて日本は間違つてゐるといふ反日主張に読者を誘導する。

三月二十九日(火) 上野千鶴子の迷言
十二日の「天声人語」は上野千鶴子を取り上げた。国内で第三者として最も公平な意見を述べるのが社会学者、その反対で偏向した意見を述べるのが偏狭者だとすれば、上野千鶴子は後者だ。それなのに
社会学者の上野千鶴子さんには数々の名言があると、前に小欄で書いた。
上野千鶴子といへば、社会を破壊する迷言を繰り返した。社会学者とは正反対だ。だから「社会学者の上野千鶴子さん」は変だし、もし上野千鶴子が社会学者ならわざわざ「社会学者の上野千鶴子さん」と呼ぶ必要はない。次に「前に小欄で書いた」といふなら、再度取り上げることはない。日本国内のもう一つの新聞失格パンフレットである東京パンフレットの場合、同じことを何回も繰り返すから読者は不快になる。
上野千鶴子の最悪な迷言は二つの下品な話(その一その二)だ。
もう一つ迷言がある。これは本人が云つたのではないが、上野千鶴子にケンカを学んだとかいふ題名の本がある。読んだことはないが、書評を検索してみると
読んでいて一番不快だったのは、「ケンカの仕方十箇条」という章。この十箇条とはずばりケンカに勝つ十箇条だ。しかし、男と女の痴話喧嘩ならいざ知らず、論争の舞台で勝つ論争をすることにどんな生産的な意味があるだろうか。(中略)ただ勝ち続けることは知性的といえるだろうか。
同感だ。反日パンフレットには知性がない。「だまつてトイレをつまらせろ」「はたらかないで、たらふくたべたい」はその典型だ。

四月二日(土) その時代の常識を考へない駄文
十七日の「天声人語」は次で始まる。
40年以上前、中学入学と同時に頭髪を丸刈りにさせられた。(中略)▼自分の体なのに自由にできない。基本的人権の侵害だ。


この文章の拙劣なところは、時代の相違を考へないことだ。もし中学校で基本的人権の侵害があれば、それこそ社会党や共産党など革新政党は追及しただらう。PTAや地域住民も非難しただらう。しかしそのような意見は無かつた。拙劣な文章から推察して、書いた人の能力は全国の読者に知れ渡つてしまつたとは云へ、「基本的人権の侵害だ」と声高に全国紙に書いてよいはずがない。どれだけ紙資源とインクと運送代が無駄になつたと思つてゐるのか。偏向文章は続く
あれが何より罪深かったのは、下校後も休日は生徒は丸刈りのままだという点だ。自宅でも街中でも。校則にすぎないのに、彼らの全生活をくまなく拘束した点だ

当時はそれがよいことだつた。しかし時代の変化とともに変はつた。当時それがよかつたかどうかは、今書いたように保護者、地域、議員、教育委員会の誰もが(このように書くと何十万人中の数人を取り上げて、当時からゐたと主張するかも知れない。しかし極めて少数は四捨五入すべきだ)異議を唱へなかつたことで明らかだ。時代が少しづつ変はつた後から見て、したり顔で書くのは卑怯者のそしりを免れない。学校は地域社会の一部だ。雇用者は会社の一員で、個人商店は地域社会の一員だ。
「独りを慎む」といふ言葉がある。私の祖父母の年代の人はよく「お天道様が見てゐる」とも云つた。昔は街灯が暗いかまつたく無いところもあり、夜は家に帰るのが普通だつた。今は夜でも外にゐる人が多いから、「お天道様が見てゐる」は廃語に近くなつた。日没後に一斉に悪いことをしてはいけない。
「だまってトイレをつまらせろ」「はたらかずに、たらふくたべたい」を魅力的だと感じる社会破壊拝米新自由主義新聞失格反日パンフレットでなければ書けない駄文だ。(完)


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