八百十九 社会破壊の馬脚を現した朝日新聞「だまってトイレをつまらせろ」「はたらかないで、たらふくたべたい」

平成二十八年丙申
三月十四日(月) 非常識記事
二月二十八日の社会破壊拝米新自由主義反日新聞(自称朝日新聞)に「だまってトイレをつまらせろ」といふ目を疑ふ記事が載つた。4ページ目で「総合4」と欄外上部にある。夕張市の財政破綻から10年、自民党が京都補選の擁立断念、安倍首相の一億総活躍社会に向けた政府の対話集会、公明党と自民党の候補者推薦が載る政治の重要なページだ。そんなところに「だまってトイレをつまらせろ」といふ悪質な記事を載せてよいはずがない。
社説欄に載せても悪質だ。それを政治のページに載せるとはどういふ神経だ。朝日新聞が社会破壊の馬脚を現した。そんなページ構成だ。

三月十八日(金) 「はたらかないで、たらふく食べたい」
「だまってトイレをつまらせろ」は、この俗悪記事の題名だが、もう一つ悪質な題名が出て来る。

だまってトイレをつまらせろ
このところ、なにかにつけてこの言葉が脳内にこだまし、困っている。新進気鋭の政治学者、栗原康さんが著した「はたらかないで、たらふくたべたい」という魅力的なタイトルの本に教えられた。
二番目のタイトルは読者に嫌な気分を与へる。左翼崩れの醜さが露骨に出た。左翼なら「働いて、たらふく食べたい」だ。ベトナム戦争の当時の解放戦線側は貧しい中で戦つたから「働いて、最小必要な分を食べたい」だつた。多くのアジア人が解放戦線を支持したのも当然だ。日本も例外ではなく、全国に革新知事、革新市長を誕生させた。
社会破壊拝米新自由主義反日新聞(自称朝日新聞)はそれとは正反対だ。何しろ「はたらかないで、たらふくたべたい」を魅力的だといふのだから。少数の全国紙に特権意識を持つ賤しい売文業の本音が露骨に現れた。

三月十九日(土) ふざけた書籍の著者は
「はたらかないで、たらふくたべたい」といふ書籍は十四ある小編を集めたもので、一番目の小編は「キリギリスとアリ」だ。

(前略)キーコー、キーコー。「気持ちいい-、最高だ。たのしいなぁ、たのしいなぁ」。
バイオリン弾きのキリギリスさんは、夏のひとときをたのしんでいました。
(中略、キリギリスがお腹を空かせてアリのところに行つたのにアリは拒否した話がここにある)
とつぜんのことでした。キリギリスさんは一口のもとにアリさんを食べてしまいました。
(中略)
はたらかないで、たらふく食べたい。これが新しい格言だ。
他人を犠牲に自分だけいい思ひをする。私はこれほど醜悪な文章を見たことがない。しかしこれ以上に醜悪なのが、社会破壊拝米新自由主義反日新聞(自称朝日新聞)の総合4面の記事の題にまでなつた「だまってトイレをつまらせろ」といふ小編だ。この本を書いた栗原康は
三年くらいつづけて、山谷の越年闘争というのに参加したことがある。ほんとうに一日だけ、お手伝いにいっただけなのだが(以下略)
とはいふものの、薪は割れない、調理は失敗する、指は包丁で切って手当てしてもらひ更に手伝ひを申し出たが皆が食中毒になると断られる。手伝ひではなく妨害もしくは野次馬だ。その栗原康は、船本洲治が三里塚闘争の帰りに

山谷によりみちをした。そこで山谷の現状をまのあたりにし、またいまにも暴動がおこりそうなそん雰囲気をみて、こりゃおもしろいとおもった。
この文章の悪質なところは、山谷の人たちに同情するのではなく、おもしろいとする。その書き方だ。船本洲治は沖縄の米軍基地前で焼身自殺するから、そんな「おもしろい」などとは思はないはずだ。もし本人が云つたとしたら、当時の米ソ冷戦を考へなくてはいけない。日清戦争の前まで朝鮮半島には親清国派と親日派がゐた。日露戦争の前まで、同じく親露派と親日派がゐた。同じように当時の日本は資本主義側と共産圏側がゐたから、船本洲治が「おもしろい」と云つたとすれば資本主義側を脱する方法の一つとして面白いと感じたはずだ。或いは長く運動をしてゐると堕落して、元々の目的ではなく運動そのものが目的となることがある。船本洲治が運動そのものを目的としてしまつて「おもしろい」と云つた可能性はある。しかしそれは当時の言動を精査しないと判らない。
この本の悪質なところはさういふ調査をすることなく、単純におもしろいと云つたと推測して引用したことだ。そしてこの本を引用した社会破壊拝米新自由主義反日新聞も同罪だ。

三月二十一日(月) 犯罪を誉める悪質な文章
栗原康は、船本洲治に触れたあと次のように悪質な文章を書く。
白豚どもによって悪意あるレッテルを貼られた不良労務者たちは、市民秩序をドブネズミのごとく荒らしまわっている。釜ヶ崎を根城とする全国を股にかけたシノギグループ、強姦殺人犯荒井博則、有名人強盗新谷良人、山谷を拠点として山手線を荒らしたスリグループ、(中略)永山則夫も川崎で日雇いをやっていた時期があった。
犯罪者を正当化するとは言語道断だ。どこが正当化したかといふと「白豚どもによって悪意あるレッテルを貼られた不良労務者たちは」の部分だ。これだと強姦殺人犯や強盗やスリが悪いのではなく、レッテルを貼つた一般社会が悪いことになる。
こんな悪質な邪本を社会破壊拝米新自由主義反日新聞は「魅力的なタイトルの本」、書いた人間を「新進気鋭の政治学者」と称賛した。反日新聞も落ちるところまで落ちた。

三月二十二日(火) こんな女に政治部次長が務まる低級な新聞社
新聞に戻ると

ある工場のトイレが水洗化され、経営者がケチってチリ紙を完備しないとする。労働者諸君、さあどうする。
(1)代表団を結成し、会社側と交渉する。
(2)闘争委員会を結成し、実力闘争をやる。
この文章が低俗なところは、まづ「ケチって」と俗悪な単語を使ふことと、「労働者諸君、さあどうする」と上から見下した物言ひ、そして時代背景を考へないことだ。
新聞が「ケチって」なんて単語を使つてはいけない。次に「労働者諸君、さあどうする」といふが、政治部次長なる女は自分を労働者だと思つてゐるか。思はない女が「労働者諸君」と云へば、それは上から見下した云ひ方になる。
この当時は、トイレに紙がないのは普通だつた。私が小学生のとき、五年と六年は柏学園といふ区立(二十三区なので東京都以外では市立)の宿泊施設に二泊三日で泊まりに行くのが恒例行事だつた。最初の日に館長が、便所に紙が備へてゐないのでといふ挨拶があつた。私は、ごく普通のことで、いちいち云はなくてもよいのにと思つたくらいだ。しかしチリ紙(当時はポケットティッシュは一般にはなかつた。チリ紙もポケットティッシュも水溶性ではない)だと、下水管が古くなると詰まることがある。内部に突起が出来たりしてそこに引つ掛かるのだらう。
時代の相違を考へずに栗原康なる男が書いた本を社会破壊反日新聞が無批判に引用する。この記事を書いた女は政治部次長を名乗り顔写真まで載せるが、呆れたものだ。

三月二十七日(日) 新自由主義の馬脚を現す
それにしても朝日新聞は駄文見本市かと云ひたくなる。
船本の思想のおおもとは、正直よくわからない。でも私は、「だまってトイレをつまらせろ」から、きらめくなにかを感受してしまった。
生かされるな、生きろ。
私たちは自由だ。
この文は中身がない。新聞が「きらめくなにか」なんて書いてはいけない。紙の無駄だ。「自由だ」と云つた場合は、何に対してどこまで自由なのかを云はなくてはいけない。例へば江戸幕府に対して欧米列強の国内程度まで、といふ具合だ。この駄文記事を書いた女は、これらを明らかにせず「自由だ」と叫び続ければ、殺人さへ自由になることに気が付かないらしい。事実、この女の引用した書籍は殺人犯まで正当化した。だから駄文記事の最後は
はい、もう一回。
だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。
で終はる。まるで強姦殺人犯が裁判所で
はい、もう一回。
だまって人の首絞めろ。ぼくらはみんな生きている。
とうそぶくようなものだ。こんな馬鹿な新聞記事は見たことがない。(完)


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