八百 本山東本願寺の本山初法座に参加

平成二十八年丙申
一月十五日(金) 十二日に参拝
十二日の月曜は休暇を取り、本山東本願寺の午後一時からの本山初法座に参加した。我が家はこれまでお東さん系(浅草の東本願寺、京都の真宗本廟)とは縁がなかつた。私の母方の祖父は、西本願寺の末寺の僧侶と一緒に修行したさうだ。これは今年の年始に実家で母から聞いた。明治の大火で末寺が焼けた。祖父の実家は造り酒屋で、季節によつて多数の職人が来るので部屋が沢山あつた。住職一家を引き取つた話は以前聞いたが、寺ごと引き取つた話は今回初めて聞いた。朝の五時になると住職一家は掃除を始めるさうだ。祖父と同年代の子がゐたので、祖父もいつしよに掃除をしたさうだ。
だから西本願寺とは縁が深いが、東本願寺や真宗本廟とはご縁がなかつた。たまたま昨年末に東本願寺を参拝したところ、感じのよいお寺だつた。といふことで今年も参拝することにした。

一月十六日(土) 勤行と法話第一部
正信偈の勤行は、二回目なので私も節をつけるのが大分上手になつた。法話は一部と二部に分かれ、一部は仏教に関係ある日本昔話といふことで、わらしべ長者を話された。
観音菩薩の堂で眠つてしまひ夢に観音菩薩が現れ、最後は長者の娘と結婚しますます繁盛するといふ、よく知られた話だ。観音菩薩はX経の観世音菩薩普門品に登場するが、阿弥陀仏ではなくてよいのかとそのとき思つた。調べてみると勢至菩薩と共に阿弥陀仏の脇侍だつた。感心したのは登場人物に声色をつけて口滑らかに話された。普段からかう云ふ話し方に慣れなければできない。昔の節談の流れが残るのかも知れない。

第一部の法話のあと休憩になつた。献金を集めに来たが、第二部を残して来るのは築地本願寺で経験済みなので今回は変に思はなかつた。しかしここで失敗した。二回目にたくさん入れようと思ひ一回目は少ししか入れなかつた。ところが二回目が来なかつた。休憩の前だけに来るのがしきたりかも知れない。今度、また築地本願寺の常例布教に参加して確かめて来よう。今回は初法座といふことで、始まる前に御本尊にお上げした夏みかんを頂いた。家に帰り袋を開けたら「とらや」の最中も入つてゐた。それでこの額は少なかつた。

一月十六日(土)その二 法話第二部
第二部は唯信抄文意の観経疎について、不得外現賢善精進之相は、自分は立派で秀れているような振舞いや善人であるような素振りを見せてはならないといふ解説があつた。次に選択本願の若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚について、念を離れた声(しょう)はなく、声を離れた念はなしといふ親鸞聖人八十五歳の著作を紹介された。
帰りのエレベータで講師の御僧侶といつしよになつた。富山市のお寺の住職をされてゐると話してくださつた。さういへば、十年ほど前に私の勤務する会社に安田さんといふ旧安田財閥の一族の方がゐた。ゴルフ練習中に心臓麻痺で急死され、お葬式は稲荷町近くの真宗大谷派末寺だつた。財閥創始者の安田善次郎は富山市出身で上京してからはこの末寺によく通つたさうだ。

一月十七日(日) 浅草界隈の今昔
今回は上野から東本願寺まで歩いた。浅草通りを田原町の手前、昔の三ノ輪車庫に行く都電との交差点(菊屋橋)まで歩き、ここを左折して小学校の隣の公園で昼食を食べた。天気予報は曇りだつたのに、上野で降りたときからときどき霧雨が降る。丁度公園で食べてゐると、霧雨が降つてきたので木の下のベンチで食べた。食べ終はり三ノ輪方面の道路を横断すると昭和四十年頃の雰囲気を残す京成菊屋橋ビルがある。ここは東本願寺が土地を貸したさうだ。その横を抜けると東本願寺に至る。
浅草通りは仏壇屋が点在し趣がある。かつて上野から柳島に行く都電が走り田原町を左折し一区画先を右折する。つまり浅草通りと云つても雷門や浅草交差点より一本南側を走る。右折する角に仁丹の広告塔があり今でもはつきりと光景を覚えてゐる。インターネットで調べると、昭和二十九(1954)年に凌雲閣を模して建てられ、窓は絵で開かず、昭和六十一(1986)年に解体され、仁丹の看板は残つたが平成十二(2000)年に撤去とある。
昭和三十一年の地図によると仁丹塔まで北側からトロリーバスが単線で来て都電と同じ方角に曲がり雷門の前を通り左折して行つた。私はこの区間は見たことが無いが、手前の部分の架線を見たことがある。今井から上野公園に向かふ101系統トロリーバスに乗ると、隅田公園を過ぎて突然どこともつながらない架線が1組増える。今井方面は1組、上野公園方面が2組で2区画ほど行くと上野公園方面のうちの歩道側の1組が左折する。これが仁丹塔で曲がり、浅草雷門前をループし池袋に向かふ104系統だつた。当時は架線の分岐器なんてないから、一つ手前の停留所で車掌が集電ポールの紐を引つ張り、隣の架線に付け替えてから発車したので、突然3組に増えた。
或るとき3組のうちの1組が消えた。小学生だつたので理由は判らなかつた。トロリーバスは101系統しかないと思つてゐた。104系統といふものがあり廃止になつたためだと知つたのは中学生になつてからだつた。当時の地図を見ると101系統と104系統に浅草観音といふ停留所が言問通りにある。浅草寺の裏でここからは浅草観音が見えないのによくさういふ停留所名にしたものだ。(完)

追記一月十八日(月) 104系統の架線
池袋から来る104系統は架線を連続させてループすればよい。そのことに昨夜気付いた。だとすれば架線が突然三組になつたのは既に廃止された後だらうか。しかし今朝になつて思ひ出した。池袋方面からポールを下げたトロリーバスが走つてきて、停留所に着いたら車掌がポールを上げて架線に接続させ、走り去るのを一回見たことがある。
当時は小学生だからトロリーバスが架線無しで走ることは想像もつかなかつた。だから眼前の出来事は記憶にしか残らなかつた。中学生になり、踏切の平面交差のため、補助エンジンを付けたトロリーバスを知つた。104系統は言問通りを交差して右折するときエンジンで走つたようだ。このことは私の知る限りどこにも書かれてゐない。補助エンジンは踏切用とだけ書かれてゐる。


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