七百八十五(乙) 浄土真宗(1.正信偈の節回し、2.節談)
平成二十七乙未
十二月二十七日(日)
真譜の正信偈
築地本願寺(西本願寺末)の常例布教や英語法座の勤行は、節をつけない。浅草本願寺(東本願寺。旧東本願寺東京別院)の法話の前の勤行は三音階の節を付ける。最初、西本願寺は節を付けず、東本願寺は節を付けるのだらうと思つた。
YouTubewで西本願寺系には真譜、行譜、草譜と三種あることを知り、このうちの真譜を聴くと、西洋音楽のソからオクターブ下のラまでの節が付く。この点についてインターネットで検索すると『京都生まれの気ままな遁世僧、「今様つれづれ草」』といふブログに次の記事がある。東本願寺系については
現在も9種類の唱法が伝承されている。/「句淘(くゆり)」「句切(くぎり)」/「真四句目下(しんしくめさげ)」「行(ぎょう)四句目下」「草(そう)四句目下」/「中拍子(ちゅうびょうし)」「中読」「真読」「舌々(ぜぜ)」/の9種類に及ぶ。
特に毎年11月27日の御正忌報恩講の大逮夜(おおたいや)で勤まる「正信偈和讃」は、/「句淘」と呼ばれる作法で行われ、所要時間は1時間半以上を要する。/通常の勤行で唱える所要時間の3倍である。/これは本願寺が東西分離前の石山本願寺の時代にまで遡ることのできる伝承によるものであり、/「句淘」で勤められる『正信偈』は、/かの『坂東曲(ばんどうぶし)』 とともに真宗門徒のアクティヴィティが伝わる、/まことに勇壮にして素晴らしい…。
とある。次に西本願寺は
東西分離当時は、東本願寺の如くであったようだが、/江戸時代中期以降に至って唱法の整理が図られ、/「真譜(しんぷ)」「墨譜(ぼくふ)」「舌々」「中拍子」「草譜(そうふ)」となった。/当時の譜面を見ると、表記の仕方は大谷派と共通するものがあり、/盛んに魚山声明を摂取していた我が宗門ではあるが、/『正信偈』に関してはある種の本願寺本来の伝統を辛うじて守っていたようである…。
現在も葬儀の時のみ、葬場勤行に用いるのは旧「中拍子」の譜で行う。/しかし、先年本山で執り行われた前門主と前裏方(門主の奥方)の葬儀では、/「中拍子」は用いられなかった。/最も伝統を重んじなければならない本山の現状に、私は大変な危機感を抱いているのは言うまでもない。
そんな西本願寺ではあるが、現在の『正信偈』の唱法は3種類しかない。/昭和8(1933)年、勝如前門主が門主に就任する当たり、抜本的な声明の改正が行われた。/敢えて忌憚なく申し上げるならば、これは改正ではない“改悪”と言わねばならない。/『正信偈』も5種類の唱法から「真譜」「行譜」「草譜」の3種類に改められ、/旋律そのものも全く変更されてしまった。/ただ「草譜」のみ、若干の変更はあるものの、昔日の旋律に近い形では残っている。
「真譜」「行譜」に関しては大幅に変更され、前者の全編、後者の後半部分は、/『五会念仏(ごえねんぶつ)作法』中にある「極楽荘厳讃」の譜を転用している。
とある。権威者のゐる場合と、宗会などの合議制の場合で、どちらが伝統を守れるだらうか。多くの人は前者だと思ふが、実際は独裁のほうが伝統を破壊しやすい。この結論はXX宗を見てゐて判つた。当時はXX会が破竹の勢ひで増加した。そして貫首(XX宗は法主と称する)が急死し、亡くなる数日前に宗務総監で池袋常在寺住職に血脈相承した。本来、前貫首の存在は必須で血脈断絶に備へなくてはいけない。これは独裁を防ぐ意味もある。しかし前貫首がゐない状態を十九年八か月続け伝統を次々に破壊し、最後は血脈を伝へないで亡くなつた。
だから権威者より合議制のほうが伝統は守りやすい。しかし合議制の場合は縮小再生産、つまりじり貧になつたとき対策がすぐに取れない。
十二月二十九日(火)
坂東曲
坂東曲(ばんどうぶし)といふものが東本願寺だけにある。これについて『京都生まれの気ままな遁世僧、「今様つれづれ草」』を引用すると
『坂東曲』とは、御影堂外陣に着座した「堂衆」と呼ばれる僧侶たちによって、/上半身を前後左右に激しく揺り動かしながら念仏と和讃を唱える声明のことである。/声明そのものも勇壮で天台声明などとは全く趣が異なる。
しばしば北陸などの浄土真宗が色濃い地域などでは、/「西の泣き節」/「東の怒り節」/などと言われることがある。
これは東西両本願寺に於ける声明の旋律の違いを表現した言葉であるが、/西本願寺では天台声明を用いるので、その旋律の様をして女性的なのに対し、/東本願寺が伝承する声明は、全体的に勇壮で男性的である。/特に『坂東曲』に至っては、敢えて語弊を無視して言うならば、/声が裏返る程の高い声で怒鳴るように唱えられる。/もっとも、決して怒鳴っている訳ではない。/発声がともすればそのように聞こえるだけのことである。/更にソフトな言い方をするならば、/ハスキーな男声合唱団みたいな感覚といえようか・・・・・。
何故、上半身を激しく揺り動かすのかというと、親鸞が越後へ流罪となった時、/流刑地へ向かう船上で荒波の中で念仏した故事にちなむと伝えられるが、/その名が示すように東国で行われていた一種の踊り念仏に由来するとも言われている。/京都で行われていた念仏曲は、天台声明の旋律であるので、/音楽理論的にも完成された曲で、今風に言うならば「都会的」なのだった。/それに対して、当時の文化果つる場所であった東国では、/思い思いに高声で念仏していたのである。/それが『坂東曲』の原型と言われている。
本願寺第三世・覚如が「なまれる声で念仏して・・・」と、異端視的に言っている所以である。/覚如の時代、毎年11月28日になると、親鸞の廟所へ東国の門弟たちが訪れて、/親鸞の「御真影(ごしんねい)」の前で「なまれる念仏」を唱えていたのである。/それにしても、東本願寺の声明は美しさこそないと言ってしまえばそれまでだが、/とにかく生命力に満ち溢れた声明だ。/天台声明を学ぶ私ではあるが、東本願寺の声明こそは、/命を賭して教えを守り通した「一向衆」の力強さを感じるのである。
この解説は貴重だ。読んだあとで坂東曲とはどんなものだらうとYouTubeで観て、なるほどと歴史の重さを感じた。もし読まないで観たら、何これと変な感情を持つて終つてしまつただらう。『京都生まれの気ままな遁世僧、「今様つれづれ草」』に深く感謝。
十二月三十日(水)
節談
インターネットを検索すると、節談といふ浪曲、落語、講談の先祖ともいへるものが浄土真宗にあることを知つた。中外日報の昨年3月6日付で田原由紀雄氏が次のように語る。
1977年のある日のこと。真宗大谷派宗務所出入りの業者の一人が「節談説教という珍しいお説教のテープを持っているから、よかったら聴かせてあげる。けど聴かせたことは内聞にしてほしい」と言い出した。事情がのみこめない私にその人がいうには「今の内局は節談が大嫌い。私が節談好きであることが幹部の耳に届くのはまずい」。口外しないことを約束して聴かせてもらったのは大谷派の名説教者祖父江省念師が語る「蓮如上人御一代記」の一節。浪花節を思わせる豊かな節、落語の人情噺を思わせるしんみりした語り……その面白さにびっくり仰天した。
世界大百科事典(平凡社)で節談説教の項をひいてみたら、「ことばに節(抑揚)をつけ、洗練された美声とジェスチャー(身ぶり)をもって演技的表出をとりながら聴衆の感覚に訴える詩的・劇的な情念の説教である。……日本の語り物や話芸の成立に強い影響を与えたが、仏教の近代化の中で衰退し、第2次大戦後一気に崩壊した。今では全国に数名の継承者が残存するのみである」とあった。
衰退した理由について、田原氏は次のように語る。
やっとたどりついたのは赤井達郎著『絵解きの系譜』(教育社刊、1989年)の中の次のような記述だった。
〈東本願寺は明治八年九月、「配紙」において「改正説教規則」を発表している。(中略)芸風の通俗的な節談説教を直接禁止したものではないが、「近代化」を願う本山にとって節談説教などは好ましいものではなく、この説教規則もひとつの力となって節談説教はしだいにおとろえ、「法話」「仏教講話」へと流れていく〉
東本願寺は明治を迎えて中央集権的な教団体制の確立をはかり、統一した教えの徹底を目指した。芸風で卑俗な私説に流れる危険をはらんだ節談は本山にとって不都合な存在だった。西本願寺も「譬喩因縁音節等ノ陋醜ニ渉ル」説教を禁じている。
(中略)2010年、砺波郷土資料館(富山県砺波市)で開かれた「真宗の説教者たち」展の図録によると1955(昭和30)年ごろ、砺波地方には10の常設説教場があった。55年から60年までに砺波市出町の眞壽寺を訪れた説教者は、延べ230人。真宗王国北陸での説教の繁盛ぶりの一端がうかがえる。
この繁盛にブレーキをかけたのは当の真宗教団だった。60年代、古い体質からの脱皮を目指して西本願寺は「門信徒会運動」を、東本願寺は「同朋会運動」を開始した。本山は節談を「前近代的」なものとみなして説教者たちに自粛を求め、テレビなど新しいメディアの普及もあって「近代的」な法話や講話への移行が一気に進んだ。
お東騒動も原因の一つになつた。
私が節談のテープを初めて聴いた77年は同朋会運動を推進する大谷派内局と伝統墨守を主張する大谷家・保守派が熾烈な紛争を繰り広げていた時期だ。説教者たちの多くは大谷家・保守派の側についた。内局の"節談嫌い"には立派な理由があったわけだ。
真宗高田派の寺の出である作家丹羽文雄は1953(昭和28)年に発表した小説「青麦」で節談の様子を次のように描き出す。
「高座の説教師は、善男善女を手だまにとっているようであった。浪曲に近い肉声の魅力が聴衆をうっとりさせた。……上手な説教師は自由自在に善男善女の感情、心理をあやつることができた。……さんざん翻弄され、いい気もちにされた参詣者は、ひとりのこらず仏に助けられたような気もちになってしまうのである」
そして、「しみじみとした対話調子の方が参詣者にもとどきやすいのではないか」と付け加えている。
田原氏は最後に次の結論を出す。
節談の盛衰には布教(教化・伝道)における感情と知性、本山と地方、近代と前近代、社会状況など複雑な要素がからみ合っている。近年、様々な領域で宗門近代史の再検証が進んでいるが、布教のスタイルや手法を軸とした近代史の再検証も今後の課題ではないだろうか。
私はこの説に賛成だ。私自身は知性、中央、近代に裏付けされこの三つ以上の、良い感情、地方、近代で失つたものの復活が必要と考へてゐる。
十二月三十日(水)その二
桜嵐坊師の節談
実際に節談をYoutubeで視聴してみた。まづは桜嵐坊(さくらんぼう)といふ芸名の浄土真宗本願寺派の僧の『親鸞さま(1)「あだ桜」(誕生・お得度)』を観た。これはすごい。最初と最後、途中の何箇所かに節が入る。これが心地良い。
次に仏教伝道協会設立五十周年記念に開催した節談の講演会での「落語と節談」。これは落語を交へた説教をしてくれと伝道協会から云はれたため、小話を四つ話したあと、昭和三十九年から新興宗教が急激に伸び、親鸞聖人の教へはこの件を何と説くかを節を交へ解説した。新作にも関はらず饒舌に話す。小話も見事で職業落語家に匹敵する。歌舞伎で「成田屋」などの掛け声に当るのが、節談では念仏といふことで、節のあと今回は慣習が慣れてゐないため「はい」といふ合図で皆が念仏を唱へる。ここも見事だつた。
最後は『親鸞さま(弁円斉度)』。これは限りなく口調が落語に近いが、最初、途中の何回か、最後に節が付く。
十二月三十日(水)その三
府越義博師の講演
伝道協会設立五十周年記念では、府越義博師といふ節談説法研究会事務局長の方が講演された。要旨は
東保流といふ一字一句まで節を限定する派がある一方、節が語りに語りが節になるものや、節をつけない方法もある。節談とそれ以外の区別は、讃題、法説、比喩、因縁、結勧があるか。讃題はお経や親鸞聖人の言葉。法説はその解説。比喩は更にわかり易いように例へ話。因縁は現実社会で起きた事件。我々は常に慈悲の光を浴びてゐる。一人で生きる人はゐない。例へば食事。私たちを生かす力=仏様の働き、慈悲。結勧は因縁と讃題との関係を歌ひ上げる。
以上の説明があつたが、私は節のあるものが節談だと思ふ。説法のとき讃題、法説、比喩、因縁、結勧の順に行ふのは普通の事だと思ふ。或いは因縁はなくてもよい。
講演のなかで桜嵐坊師の本名をいふ部分があるが消されてゐる。今では五十歳だから内局の役職に就くなど、本名を明かせない理由があるのかも知れない。
十二月三十日(水)その四
名古屋浄信寺住職羽塚孝和師の節談
老僧が演じる「山伏弁用 板敷山」を見つけて視聴した。桜嵐坊師の若い節談もよいが、伝統を受け継いだ老師の節談は更に良い。そのときはさう感じた。そこのお寺のホームページを読むと、CDを聴いて独学で節談を復活させたといふ。努力の賜物のような熱心な僧侶だつた。
右手で扇を持ち、時々畳を敲く。講談にそつくりだ。講談が節談から派生したといふのは頷ける。途中に今ではつまらないと感じる節がある。ここは桜嵐坊師の節は現代人が聴いて退屈しないようにできてゐると感じた。しかしそれは演者の責任ではない。日本の音楽教育の欠陥であらう。(完)
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