七百四(その五)、1.池上本門寺、桐谷征一師「宮沢賢治と一緒に法華経を楽しもう」続編、2.日蓮とその教団(吉川弘文館)宮沢賢治のマンダラ世界

平成二十七乙未
六月二十八日(日) 「宮沢賢治と一緒に法華経を楽しもう」第九回
昨日は桐谷征一師「宮沢賢治と一緒に法華経を楽しもう」第九回(大曼荼羅第3回)である。私は前回からの参加だから二回目である。今回から氏ではなく師としたのは、今回はネクタイをされなかつたのと、背広とズボンの上に着用されたのは衣だと判つたからである。プリントには
今回は、宮沢賢治の法華経信仰において、彼がこれぞわが進むべき道と選び取った、日蓮聖人の大曼荼羅について学ぶ第三回目になります。疑いなく賢治は、大曼荼羅を通して宗祖日蓮聖人が発信されたメッセージをしっかりと受けとめたのです。そのような彼の鋭いセンス、感受性は、彼の天性ともいうべき文学的才能と見るべきでしょうか、あるいはその後の法華信仰によって磨かれたものだったのでしょうか?

とある。最初の本尊は書すとあり、二番目からは図すとなり、百幅本尊の次に佐渡始顕本尊。身延にあつたが明治初めに火事で焼失。写しが二つあり、身延日亨、京都妙満(メモに書かなかつたため、満の字が不確実)寺、このうち田中智学の書写したのは後者。考へる図と伝へる図は異なり佐渡始顕以後は後者。次に御本尊のどの位置に何が書かれてゐるかといふPPファイルを用ゐての解説があつた。以下は私のメモ書きである。
・観音菩薩が出てこない。
・当時日蓮聖人をいじめたのが真言密教。その不動、愛染がなぜ梵字で書かれてゐるか
・開会。開は分析、会は正反合でいふ合
・花押に自分の名を書くとその僧の心象
・春と修羅、春は仏。
・一念三千、縁起。
・真言の曼荼羅は固定だが、日蓮聖人の曼荼羅は日蓮、授与者、授与年月日の関係
・お曼荼羅に儀軌なし。みんなちがってみんないい 金子みすず
・総帰命と四聖帰命
・本化四士の配置の違ひに宮沢賢治は気付いた
・お曼荼羅の分類は皆、失敗。山川智応は教門、観門に分類。広、略、要、要要にも分類、賢治の手帳の曼荼羅は要
・山中喜八は四系列、九部門に分類
・賛文は二千二百二十余年と二千二百三十余年。佐渡始顕は二千二百二十二年目。弘安四年以降はすべて三十余年
・仏教史観は一般に末法悲観。日蓮は末法為正(末法こそ正法だ)。今本時の娑婆世界(観心本尊抄)。本時とは釈迦の時代
・賢治は周りに布教したが伝はらない。そこで法華文学。仏教は疲れてゐる、科学は冷たい


七月四日(土) 宮沢賢治のマンダラ世界、その一
「日蓮とその教団」といふ高木豊先生古希記念論文集の書籍がある。ここに桐谷征一師が「宮沢賢治のマンダラ世界−その文学と人生ににおける表象−」を投稿されてゐる。 まづ国柱会が会員に授与する曼荼羅の写真と釈文が載る。これによると曼荼羅の左肩には若人有病得聞是経、右肩には病即消滅不老不死と書かれる。また曼荼羅の左下には病之良薬と書かれる。この本尊を毎日拝み、それなのに妹が病死したとなると、賢治の信仰心は相当変化をするのが当然である。桐谷師の論文に移ると
法華経へ到達して後も、彼の信仰は必ずしもその伝統的、大勢的位置に立っていたとはいえない。また、同じところに立ち止まっていたとも思えない。彼はつねに、自身の信仰のあるべき姿を求めつづけ、それを改革しつづけていたといえる。すなわち、宮沢の信仰を見る場合、それは中心が一定点に止まったままの円的、あるいは同心円的信仰としてではなく、中心が二定点以上存在する楕円形的信仰として捉える必要がある。彼の法華信仰は、彼自身の信仰の深化、また当時一般の法華信仰との異同をきびしく峻別する立場で追及されなければならない。

七月十一日(土) 宮沢賢治のマンダラ世界、その二
桐谷師は賢治の形象および心証としてのマンダラを年次を追つて紹介してゐる。
<その一・形象としての事例>では賢治の所持するマンダラは智学が授与したものであることを紹介し、
<その二・形象>では宮沢にマンダラを詠んだ三種の短歌が存在する。『新校本』の編者は、これを「大正八年八月以降」の作としているが、当時の彼はまだ、ごく表面的、観念的な認識に止まっており、後の彼自身のマンダラ観に到達してはいない。彼の信仰に、かなりファナティック行動が見られた頃である(6)。として(6)の注は宮澤が彼自身のマンダラ世界に開眼したのは、日蓮のマンダラによってであったが、その根底にある「一念三千」の縁起の世界観については、マンダラに先んじて深い関心を寄せていた。大正七年(一九一八)の二月、ないし五月頃の宮沢は、父や友人保坂宛にさかんに「一念三千」説と出会った感動を書き送っている。本文に戻ると
あはれ見よ青ぞら深く刻まれし大曼荼羅のしろきかゞやき
須弥山の瑠璃のみそらに刻まれし大曼荼羅を仰ぐこの国
はらからよいざもろともにかゞやきの大曼荼羅を須弥に刻まん
なお、この三首の歌稿については、後に宮沢自身の手で抹消の跡が残されているという。
桐谷師は、賢治がこのマンダラ感を容認できなかつたと推定する。しかしここには彼が遺した形象が存在し、しかも大曼荼羅と呼称したのは日蓮がみずから、伝統を超越して創案した新形式のマンダラに自負をこめて命名したものであったといふ。
<その三・心証>では「インドラの網」をとりあげ、これは華厳経に出展し、帝釈天(インドラ)のすむ宮殿の装飾で、桐谷氏は賢治が法華経の「一念三千」説を援用する説として採用したと推測する。
<その四・心証>は大正十二年頃と推定される「土神ときつね」で「それは死んだ美です」「ほんたうの美はそんな固定した化石した模型のやうなもんぢゃないんです」で、これは賢治の真言密教のマンダラへの批判だと桐谷師はいふ。
<その五・心証>で書籍の「春と修羅」は「注文の多い料理店」と同時に刊行されるはずだつたとし、「広告チラシ」の文面からは、詩だけでなく、童話もともに「心象スケッチ」なのだという宮沢のはっきりした意思表示がみえるとし心象スケッチとは「すべてわたくしと明滅し、みんなが同時に感じるもの」「著者の心象中に、この様な情景をもって実在した」ものでそれは彼の心象中に存在した「マンダラ世界」の描写であることの告白ではないか。
<その六・心証>「第四次元」の意味するところについては、今日もなお議論の決着を見ていない。集約すれば、それらは科学的、芸術的、あるいは宗教的表現のいずれかとした上で、宮沢自身が、この三つの立場はそれぞれ別々に存在するものではなく、ただ一つの世界に他ならないこと、また、それはただ観念的世界として指摘するだけではなく、新しい文化運動として現実世界の中で建立すべきことを、「第四次元」の用語にかけて提唱する意図と桐谷師は推量する。賢治の思想の背景に日蓮のマンダラの思想と法華経の開会(かいえ)の思想を考へるとその理由が明らかになるといふ。
<その七・形象>では、「銀河鉄道の夜」でジョバンニのポケットにあつた切符はマンダラ本尊だとする。
<その八・心証、形象>では宮沢が「装景」の語をマンダラの形象とイメージをだぶらせ(中略)(すべてこれらの唯心論では風景がことごとく諸仏と衆生の徳の配列であると見る)それは感情移入によって/仮に生じた情緒と外界との/最奇怪な混合であると/皮相に説明されるがごとき/さうぃふ種類のものではない
<その九・心証>では昭和四年二月の作品を掲げる。前年の八月に風邪から急性肺炎になり自宅療養中だつた。 われやがて死なん/今日または明日/(中略)/われとは畢竟法則(自然的規約)の外の何でもない/(中略)/ともにそこにあるのは一の法則(因縁)のみ/その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり/そのこと人に菩提の心あるを以て菩薩を信ず/菩薩を信ずる事を以て仏を信ず/諸仏無数億而も仏もまた法なり/諸仏の本原の法これ妙法蓮華経なり/帰命妙法蓮華経/生もこれ妙法の生/死もこれ妙法の死/今身より仏身に至るまでよく持ち奉る。桐谷師はこの作品についておそらく宮沢のマンダラ観がこれほど直截に語られた例を他に見ることはあるまい。と評する。
<その十・心証>「雨ニモマケズ」手帳の五つの自筆マンダラ。五つのマンダラは次のようになる。
マンダラ1
 南無浄行菩薩
 南無上行菩薩
南無妙法蓮華経
 南無無辺行菩薩
 南無安立行菩薩

マンダラ2
  南無無邊行菩薩
  南無上行菩薩
 南無多寶如来
南無妙法蓮華経
 南無釋迦牟尼佛
  南無安立行菩薩
  南無浄行菩薩

マンダラ3
 南無浄行菩薩
 南無上行菩薩
南無妙法蓮華経
 南無無辺行菩薩
 南無安立行菩薩
 南無安立行菩薩

マンダラ4
大毘沙門天王
 南無浄行菩薩
 南無上行菩薩
南無妙法蓮華経
 南無無辺行菩薩
 南無安立行菩薩
大持國天王

マンダラ5
南無妙法蓮華経
南無上行菩薩
南無浄行菩薩
南無無辺行菩薩
南無安立行菩薩
  安立行


七月十八日(土) 宮沢賢治のマンダラ世界、その三
私は賢治の日蓮信仰を(1)熱心な時代、(2)冷めた時代、(3)熱心に戻つた時代に分けたが、桐谷師も三つに分類されてゐる。
宮沢の対マンダラ観には、少なくとも三段階の成長が認められる。まず当初第一段階における彼は、すなわち(中略)<その一><その二>で紹介した時期における例では、マンダラについて思想上、信仰上の認識はあっても、それはごく観念的理解に止まっている。次に第二段階では、宮沢はマンダラに対して、その観察者もしくは演出者となる境地に至る。ここでの彼は、ある対象にマンダラを感受すると、それを冷徹に観察し、もしくは他に解説し、あるいは自身の演出を加えて楽しむなどの境地が見られるのである。即ち(中略)<その三>より<その七>にいたる例である。/最後の第三段階で宮沢は、自分自身をマンダラ世界の中に投入し、彼自身がマンダラを構成する一員になりきり、その主体的実践者、行動者たるべく努力するようになる。ひいては、その実践は彼一身が参画するのみにとどまらず、彼の外にも同志を集め、語らい、指導するなど、それはマンダラの社会化あるいは社会的実現とでもいうべき方向へと発展させることになる。自分の人生のすべてをマンダラの実践の場へと昇華させること、宮沢にとってそれは、彼が最終的に到達した境地である彼自身の仏道修行、より具体的には法華信仰にもとつづく菩薩行の実践に他ならなかった。

私のいふ冷めた時代は後退、桐谷師のいふ第二段階は成長だから方向が逆だが、それほど意見が離れてはゐないと思ふ。それは桐谷師の「観察者もしくは演出者」「冷徹に観察し、もしくは他に解説し、あるいは自身の演出を加え」に現れる。一方で
彼がみずからのマンダラ世界と出会い、その真の意義に目覚めた第二段階から、それを実践行動に移すに到る第三段階の時期まで、おそらくそれほどの月日を要しなかったと思われる。現実に宮沢の中では、後の二段階の心証はその判別が困難なほど混在して見られるのである。

と逆の評価もしてゐる。しかし賢治の目標が「仏道修行、より具体的には法華信仰にもとつづく菩薩行」であるなら、私の主張する日蓮信仰を一時後退して社会志向或いは文学志向になることと、桐谷師の主張する第二段階、第三段階と進歩することは同じ意味である。

七月十八日(土) 先月の質問
先月の学習会のあと、なぜ天界には南無を付けないのか質問した。桐谷師の回答は、すべてに南無を付けると多くなるからだらうといふ内容だつた。日蓮直筆のマンダラには天界に南無を付けたものが少数だが存在する。そのことを考へれば桐谷師の回答が正解であらう。一方でマンダラの分類で大多数のものと例外を分ける方法があつてよいと思ふ。すると天界は南無を付けないものが大部分である。
その理由を考へるうちに、大石寺の経本の初座(諸天善神供養)の観念文を思ひ出した。大石寺や西山本門寺の勤行は開経偈、御妙判拝読、宝塔偈、四誓がない。題目三唱、方便品、寿量品、題目多数、観念文、題目三唱だけである。大石寺の昔の勤行は天拝、御影堂、三師塔、客殿などを廻つて行つた。それを一か所で行ふようになり、朝は五座、夕は三座で同じことを五回または三回繰り返す。しかし題目多数の部分は最終の座のほかは引き題目を三回唱へる。戸田城聖が普通の題目は十円玉で引き題目は百円玉と云つたことがある。つまり三回しか唱へなくても多数唱へたのと同じ効果があるといふ意味である。
その初座の観念文は「生身妙覚自行の御利益、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王・天照太神・正八幡大菩薩等・総じて三大秘法守護の諸天善神、諸天昼夜常為法故而衛護之の御利益、法味倍増の御為に」だつた。その後、昭和三十八年頃それまでの素朴な伝統が次々に破壊行され始め天照太神・正八幡大菩薩が省略された。「自行の御利益」といふことで仏教とは無関係に自力で天界に生れた。だから南無を付けないのではないだらうか。これは学習会のあと気付いた話である。
ここで話を終へる予定だつたが本日発見したものがある。昭和十年に歓喜寮の発行した観念文がインターネットに載り「南無生身妙覚自行之御利益南無大梵天王帝釋天王大日天王大月天王大明星天王天照大神正八幡大菩薩等総じて法華守護の諸天善神諸神昼夜常為法故而衛護之の御利益御報恩謝徳の御為に 南無妙法蓮華経」とある。ここでは天界に南無を付けてゐる。歓喜寮とは中野教会でかつて創価学会が所属した。


「宮沢賢治13」、大乗仏教(日蓮系)その二十
「宮沢賢治15」、大乗仏教(日蓮系)その二十二

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