七百四(その四)、X経と僧X信仰
平成二十七乙未
六月十七日(土)
作家Xの信仰の変化
僧Xの教へは現世利益である。その一方で、国全体がX経を信仰しないと善神は国を去り悪鬼が取り付くから御利益がないといふ教へもある。後半部分を云ふと信仰に影響するから普通は前半だけを強調する。XX会が大折伏を行つたときも、善神は国を去つたから御利益はありませんとは一言も言はなかつた。専ら病気が治つた、倒産寸前の商売が繁盛した、家庭不和が治つたといふ体験発表ばかりを並べた。
現世利益仏教の欠点は、悪いことが起きた場合に信仰心が消滅することである。作家Xは妹としの死で信仰がかなり減少した。大正九年十一月国柱会に入会、大正十一年十一月としが死亡。その間、丸二年だつた。としの分骨は三保の国柱会施設に納骨したが、その後、作家Xの信仰心はかなり冷めたものになつた。しかし自身の病気で信仰心を取り戻し回復を願ひながら亡くなつた。この経年変化を考へないと、非僧X系の人は作家Xは僧X信仰を捨てた、僧X系の人はX経を配布する遺言を残したと、両論が平行線をたどることとなる。
六月二十一日(日)
作家Xと僧X宗の接点
田中智学は元僧X宗僧侶だつたが同宗が布教をしないことに反発し還俗した。その後、X寺の教義と接する機会があつたものの即座にこれは駄目だと断じた。しかし僧△の門流には身延で失はれた僧Xの教へが残つてゐることを知り、X寺から2Km離れ、僧△の建立したもう一つの寺院、北山本門寺と親密になつた。この当時北山本門寺は本門宗(当時の名称は僧X宗興門派。しかし僧X宗とは無関係)だつた。国柱会を北山本門寺と統合する話も進んだが反対もあつて物別れに終つた。それは本門宗がX寺や北山本門寺など八本山(後にX寺が離脱して七本山。本門宗は一つの宗派だつたが文部省に強制されただけで、実態は八本山がそれぞれ本末関係で独立してゐた)の連立組織だつたことも影響するかも知れない。しかし北山本門寺との関係は続き、田中智学は僧△の再来とも称された。智学が三保に最勝閣を建てたのも、富士戒壇論を主張したのも、国柱会の合宿を北山本門寺で開催したのもその流れだつた。だから作家Xと僧X宗(単称。他の僧X系団体を含めない呼称)との関係は、田中智学の還俗前が僧X宗だつたといふだけで、まつたくなかつた。
このころ、花巻に身延の法華堂を建立しようとする動きがあり、作家Xの叔父の宮沢恒治がこの運動に参加した。そして叔父の依頼により作家Xは法華堂建立勧進文を著した。「教主釈迦牟尼正偏知/涅槃の雲に入りまして」で始まる勧進文は「正法千は西の天」「像法千は華油燈の」「この時地涌の/上首尊」「本化上行大菩薩」などX経を知らなければ書けない。「要法下種の旨深し」「身延の山のふところに」「向興諸尊ともろともに」「流れは清き富士川の」と身延、富士の両方の主張に気を使ひ、「当主日実上人は」で身延法華堂建立運動に着地した。全体の均衡に配慮した名文である。
昭和三年法華堂は建立され、しかし作家Xは法華堂の信者になることはなかつた。昭和二十一年法華堂は身照寺と改称し、昭和二十六年宮沢家は菩提寺を安浄寺(浄土真宗)から身照寺に変更した。その前の昭和十六年に本門宗は僧X宗に合同した。作家Xと僧X宗はこの二つの出来事により接点が出来た。
六月二十二日(月)
法華堂建立勧進文
多くの研究者によつて、作家Xの作品は解説が幾重にも為された。しかし法華堂建立勧進文は手がつけられなかつた。作家X研究者のほとんどは非僧X系だし、僧X宗系の研究者にとつて富士派の香りのするこの作品は触れたくなかつた。特に戦後、富士派のX寺信徒団体XX会の急伸により、触らぬXX会にたたりなしと無視された。
昭和四十五年XX会は大折伏を停止した。その前の昭和十六年に本門宗は僧X宗と合同した。これで僧X系の研究者に障害はなくなつた。文学者の研究にも立正大学などは協力すべきだ。そして法華堂建立勧進文に教学、文学の双方から精査をすべきだ。
ここで法華堂建立勧進文が身延と富士の均衡に気を使つてゐる例を一つ挙げよう。身延の主張では、僧Xの亡くなつたあと輪番制の時代を経て日向が第二代になつた。富士の主張では僧Xの亡くなつたあとは僧△が第二代になり、墓所の輪番に皆が来ないので催促したところ六老僧の一人日向が登山したので学頭に任命したが身延の地頭波木井実長が日向の説に従い僧△に反抗したので離山し富士でX寺と北山本門寺を建立した。
作家Xの「向興諸尊ともろともに」は双方の主張を折衷したものだが、身延は僧△に言及したくない。なを僧X宗の総本山は身延だが身延が僧X宗全体を統治するわけではない。統治するのは宗務院で明治以降芝二本榎にあつたが空襲で焼け、戦後は浅草清島町の統一閣に移転し、今は池上本門寺の横にある。明治維新以前も同じで池上、中山、京都日像門流などがそれぞれ本末関係を維持した。僧X宗全体の中で身延は少数で日像門流が多いと云はれてゐる。
六月二十四日(水)
三保の最勝閣と国柱会の経年変化
三保の最勝閣は田中智学一世一代の自信作である。将来富士に建立されるであらう国立戒壇を望み、海を木造の橋で渡ると竜宮城のような建物が現れる。当時の絵葉書にもなつた。ところが清水港の港湾工事で周囲が埋立てられた。景色が一変し目の前は埋立地になつてしまつた。そして昭和四年撤退を余儀なくされた。これで日本は罰を受けるだらう。智学はそのようなことも言つた。内心はかなり落胆したのだらう。作家Xが上野桜木町の国柱会本部にがらんとした冷たさを感じたのはそんなときではなかつたか。大正十二年に妹としの分骨を納めてから数年後の出来事であつた。北原白秋が最勝閣で長歌と反歌を詠んでからも数年後だつた。
六月二十七日(土)
X経と御妙判
僧X系の信者にはX経重視型と御妙判重視型がある。御妙判とは僧Xの著作、お手紙などである。余談だがX寺系では御妙判のことを御書と呼ぶ。昭和六十年辺りに妻帯準僧侶XがX寺六十六世で、XX会がまだX寺の信徒団体だつたときに、若い僧侶が講演で御妙判と言つた。妻帯準僧侶X管長は「今は皆が御書といふのだから御書といふべきだ」と講評したことがある。それ以来、私は逆に御書のことを御妙判と呼ぶようになつた。当時からX寺の高圧的な態度には批判的だつた。
作家Xは典型的なX経重視型である。だから「銀河鉄道の夜」に現れる現象は、X経で釈尊の目から光が世界を照らしたり、地面の底から塔が現れたり、といふのと類似する。慶應義塾大学講師正木晃氏が平成二十年の金曜講話で「「21世紀の『立正安国』」と題して話されてゐる。そこでは国が日本から宇宙へと広がつてゐると話された。なるほどX経重視だと宇宙へと広がる。といふことで次は正木晃氏の講演を視聴した。
六月二十八日(日)
正木晃氏の講演
講演の要旨は
・僧Xはこの世を浄土にといふ教へ。戦前を批判されるため安国があいまい、戦前が全部間違つてゐるとは思はないが。
・明治維新後は外国からコレラなど伝染病が入つたため病死者が多かつた。特にスペイン風邪で多数が死亡。水道の普及で死者が減つた。
・僧Xの教へは逆境の立場、日本が弱者から強者になつたときどうするか考へなかつた。
・僧Xのいふ国は、日本から宇宙へ。しかし我々は日本にゐるし僧Xは日本人だから日本を。しかし戦前があるから詰めてゐない。
・第二次大戦中やその前のほうが明瞭。今木不明瞭。
・各派を混ぜてアイロンを掛けるのではなく、それぞれの宗派が伝統を守るべき。
以上の正木氏の主張に私はすべて賛成である。私自身がこれまでホームページで主張してきたことでもある。正木氏はそれ以外に中世は
・自由即、死。秩序のない世の中だからどこかに所属しないことは死を意味した。
・寺は唯一安全。何とか食べても行けた。
・当時は年利100%、貸主はほとんどお寺。高野山は3000人の僧がゐたが仏教を学び修行をするのは250人。3000人は行人(ぎょうにん、僧侶と普通の人の中間、経済官僚)だつた。
中世のことは聴衆も知らない人が多いから、インターネットで視聴した私を含めて興味深く聴くことができた。実は一週間前に平成二十四年の講演「作家Xはなぜ浄土真宗からX経信仰へ改宗したのか」を観た。期待外れだつたが批判を避けるため放置した。今回平成20年を聴いて有意義だつたので、平成二十四年をもう一度聴いた。
・マザーテレサはカトリック内で批判されてゐた。ヒンズー教出身で、他宗教の信徒はカトリックに改宗しなくても幸福になれるとしたからだ。作家Xの作品も他宗教のままで幸福になれるといふ思想がある。
・作家Xは国柱会に親しい友人がゐなかつた。
・作家Xは外来仏教は選ばなかつた。
作家Xに関係する話は以上である。あとは
・明治維新以降、布教に成功したのは僧X宗、真宗。禅宗はインテリに広まつた。
・僧X宗、真宗、XX教の類似性。
・阿弥陀の仏像がインドから発見されない。大乗仏教は西インドで生まれ一神教の影響を受けたのでは。
・中世は自力(自分で自分を守る)だから、信仰は他力になつた。
・浄土に行つたら、また戻つてくる。浄土は修行の場所
正木氏の講話は知識の羅列である。また突飛なことを紹介した場合はそれを現在にどう生かすかまで話さないと駄目である。例へば真宗の僧侶がかなり自由にやつて一回破門になつたがまだ復帰したといふ話は、それを紹介するだけだと単に知識を自慢しただけになつてしまふ。その先の「だから宗教はもつと自由にやるべきだ」だとか「今は活性度が低い」と現在とのつながりを話さなくてはいけない。
「作家X12」、大乗仏教(僧X系)その十九へ
「作家X14」、大乗仏教(僧X系)その二十一へ
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