七百四(その三)、X宗月例金曜講話

平成二十七乙未
六月六日(土) 中村雅輝師、その一
北山本門寺系の布教所で二年前に本化妙宗連盟の会員一名、他のX宗の寺院に所属する婦人二名で賑はつたことがある。このとき婦人の方から毎月金曜に宗務院で講話会があると聞き、ぜひ参加したいものだと思つた。しかし行く機会がないまま二年を経過した。先日池上本門寺の朗子会館で行はれた講演会に参加したとき、隣にある宗務院の講演会にも参加したいものだとこの話を思ひ出した。
昨日は宗務院で常任布教師福岡県實成寺住職中村雅輝師の講演があつた。常任布教師に任命されるからはさぞ話が上手だらう。さういふ期待もあつた。始まるや小倉生まれと自己紹介ののち「小倉生まれで玄海育ち口は悪いが顔がいい」と話し、これは面白いと思つた。私だつてかなり話は面白いが、かう云ふ笑はせ方はしないから余計、私より話の面白い人が現れたと感じた。続けて、「若いお母様がたの前でこの話をしたが誰も笑はなかつた。時代が違ふと感じた」といふ話もよかつた。ここは面白さを反復させた部分である。
実際の法話に入ると、まづ檀家さんで股関節の手術をするか迷つて相談に来た人の話になり、ここはそれほど面白くない部分だつた。講演は話術で面白くする方法と、中身で面白くする方法があり、両方の掛け算だから一方が劣ると綜合点が低くなる。尤も金曜講話会は平日の昼間だから参加者のほとんどはお年寄りである。このような話を入れることは悪くないのかも知れない。また一時間で話す内容が一つか二つだと、余談で時間をつなぐことになるから、退屈になる。
今回の講話で重要な部分は、(一)福島第一原発の故吉田昌郎所長が記者会見で、現場の作業員に地湧の菩薩を見た、(2)オリンピックやワールドカップだけではなく皆がまとまれるものが南無妙法蓮華経。まづ(一)では吉田氏が何の信仰だか調べたが判らず、天台読みなのかどの読み方なのか判らないといふ前提で話された。インターネットで調べると般若心経を諳んじたり道元の『正法眼蔵』を原発に持ち込んだとあるので、座禅の系統でX経を読んだのであらう。

六月七日(日) 中村雅輝師、その二
地湧の菩薩は、本化(本仏の所化)の菩薩といふ話もあつた。ドンキホーテ、これは安売り店ではなく、で会場が笑つたあと、ドンキホーテのように見果てぬ夢を持つことが大切だといふところで話が終つた。

この部分が印象に残つた理由は、数日前にインターネットで調べてゐたら、XX会が国立戒壇を目指したが途中で放棄し、X会が今また見果てぬ夢を見ているといふ文章を読んだためである。私が思ふに見果てぬ夢は駄目で、実現可能な夢でなくてはいけない。僧Xの時代は飢饉や疫病が流行したから、このままでは釈尊が虚偽になつてしまふといふことで在来各宗派を攻撃した。今は飢饉も疫病もないから他宗派を攻撃する必要はない。しかし仏教全体が形式化しまさに末法である。X宗に見果てぬ夢があるとすれば、世界全体が地球滅亡に向かふ中で、まづ日本で宗教全体の再生を行ふべきだ。仏教全体だとXX教やイスラム教と敵対することになり兼ねない。これらの信徒は織田信長の時代以来の伝統として信仰を尊重する。しかし日本でXX教やイスラム教を信仰しようといふ人はもともと活性化してゐるから、ここでは仏教に限つて話を進めることにする。日本全体の仏教を再生するためX宗のすべきは、すべての檀信徒が朝晩に題目を三唱でもよいので唱へるようにさせる。すると仏壇に曼荼羅を掲げるようになる。その事実を他宗派に発表すればすべての宗派が活性化する。檀信徒の子供のなかから優秀な人が僧侶になるようにり、寺院は本堂部分と住職の家庭部分を分けるようになり、いずれ会社のように家から交代で通ふようになり、一方で家庭を養ふには通ひの寺だけでは足りないから僧侶の会社勤めを促進する。これで日本の仏教は活性化する。

六月八日(月) 中尾堯文師
X宗のホームページでは、過去の金曜講話を動画で公開してゐる。その教化の熱意に心から敬意を表するものである。昨年九月は十林寺修徒中尾堯文師である。立正大学名誉教授中尾堯氏とお呼びしたほうが有名である。鎌倉妙本寺の臨滅度時本尊を修復したお話は誰もが興味深い内容である。
修復で釈迦と多宝如来はこちら向き、その他は向ふを向いてゐて、その理由は説法をするのは仏だけ。右が上位だから右手を勝手と云ひ、上行菩薩が釈尊と反対側にゐるのはそのため。末寺によつては四菩薩を斜めに配置しこちら向きを表すところもある。元々は曼荼羅を本尊としたが京都では鎌倉末期、その他の地域ではその五〇年後から仏像を安置することが始まった。
真蹟かどうかは紙の質と墨の乗りを見る。紙の色でどの時代か判る。さういふ話もあつた。かつてXX会の大折伏のときX寺の戒壇本尊が本物かどうかで激しい論争があり、中尾堯氏も大活躍をされたと記憶してゐる。だから中尾堯氏の名前は四十年前から知つてゐた。

六月十三日(土) X宗現代宗教研究所所長
昭和二十四年に広島県妙長寺住職三原正資師が「水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」〜21世紀をはばたく作家X〜と題して講演された。その温厚な話し方から住職としては立派な方なのだらう。しかし作家Xについて、次の評価(要旨)は正しくないと感じた。
当時はレコードは高かつたが東京のレコード会社が驚くほど買つた。それを農民に聞かせたが農民も迷惑だつたのでは。

作家Xは農民に強制した訳ではない。希望者だけが羅須地人協会に来た。例へばX宗は真宗や曹洞宗に比べて少数派である。しかも葬式や墓参りだけの檀家を除けば信者と呼べる人は国民の0.01%である。だからといつてX宗の活動や金曜講話会が国民からかけ離れた迷惑な存在だといふことは絶対にない。それと同じで羅須地人協会には若い農民が集まり、岩手日報に「新しい農村を建設する 花巻農学校を辞した作家X先生」といふ記事が掲載された。翌年には社会運動の疑ひで警察の聴取を受け活動を停止した。このことも警察の聴取を受けるほど活動が活発だつたといへる。
このあと三原師は身延山高校時代の話や奥さんが追突事故に巻き込まれた話が続き、本題の作家Xについて五分間話しただけで講演を終了した。「銀河鉄道の夜」について資料に書いてあると言はれたがビデオには写らない。一言だけ「銀河鉄道の夜」はXX教のパッケージにX経の中身といふ言ひ方をされた。X宗現代宗教研究所所長の講演としてはいささか不十分である。しかし戦前戦中は火葬を近所が総出で行つたといふ話は貴重だし、頭の半分は近代合理主義だから次の世があるとは言ひにくいといふ話は正直なので好感を持つた。念のため飛び飛びではあるがもう一度視聴した。レコードが高かつたといふ話に続いて
・めずらしい花や野菜をリヤカーで売つて歩いた。当時は高級品だから周囲からは「作家X家のばか息子」と呼ばれた。それゆゑ印象に残つた。でくのぼうは(1)役に立たない、(2)役に立つ/立たないを超越
・西洋から入つた釈迦は無我、魂が出てこない。次の世があると坊さんは説いてほしいと医師がいふ。
・「銀河鉄道の夜」は次の世がある。十字架が何回も出てくるがXX教のパッケージにX経の教へを入れた。外国人が読むことを考へてゐた。

なるほど外国人が読むことを考へたことはあり得る話である。

六月十五日(月) 村尾泰孝師
大阪實泉寺住職村尾泰孝師の講演は信仰の確信で素晴らしい。僧侶の講話はかうあるべきといふ模範である。学術で優れたのが中尾堯文師の講演、信仰で優れたのが村尾泰孝師の講演である。要旨は
・方便品 お釈迦様がX経以前の経は方便だと説法する
・お経や御妙判は自分に言はれたつもりで読む。読経のときは舎利弗と読むが、理解のときは自分の名前を入れる。
・お経の意味が判らなかつたら菩提寺の僧侶に訊く。経について伝へるから僧宝、僧侶が「判らないがオレはこう思ふ」と答へたら「オレ教」「住職教」
・方便品第二は誰でも、寿量品第十六はどこでも
・X経は処方箋、服用の仕方。題目は薬。


月例金曜講話会の講演を最後まで聴いた後で、村尾泰孝師を調べると身延山奥之院思親閣でも同じ題で講演されてゐる。こちらは四十五分である。時間の都合で最後まで観なかつたが、会場の笑ひ声など反応はこちらのほうがよかつた。

六月十七日(水) 経を引用するのが僧侶だ
村尾師の講演を聴いて気がついた。信仰を語つてこそ僧侶である。これまで話の上手下手、面白いか否かで論評してきたが、金曜講話は寄席ではないのだからこれは正しくない。信仰の確信を重視すべきだ。しかしそれだけでは不十分である。お経を引用してこそ僧侶である。
XX会がX寺と喧嘩別れした理由の1つに、XX会はX経を軽視するようになつた。だから別れた後にX寺のことを、僧侶が富士学林でX経ばかりを勉強するのは信徒に対して優越感を持つためだ、と批判したことがあつた。私はX寺の戒壇板曼荼羅絶対論と貫首絶対論は誤りだといふ立場である。しかしX経重視はX寺に分がある。XX会がX経を軽視する根拠は僧△の遺誡置文の
当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間(いとま)有らば台家を聞くべき事
による。しかしこれはX経全体を理解した上で御抄(僧Xの著作)をよく読み、次に天台のX経解釈を勉強せよといふことで、X経を理解しなくてよい訳ではない。村尾師の講演を聴きながらそのようなことを思つた。

六月十七日(水)その二 プレゼンソフトの功罪
金曜講話会はプレゼンソフトを使はない。私の感覚ではプレゼンソフトを使ふと話が下手になるからこれはよいことである。しかし金曜講話をこれまで紹介したもの以外にも幾つか視聴し、プレゼンソフトを使つたほうがよいと感じた。或いは資料として話の概要を配布する場合もある。これならプレゼンソフトを使ふのと同じ効果があるから問題はない。話の概要ではない資料を配るとこの効果がない。
話の概要を配布或はプレゼンソフトで紹介することは、話の全体を階層化することである。本日話したいことはこれとこれとこれだといふ項目を示す。本当は各項目を統合する大項目が一つあるはずだが項目を示すことで全体を階層化でき、そのことは大項目を見つけるのと同じ効果がある。講演をする人はこのことを守れば今の三倍は効果のある話ができよう。プレゼンソフトを使ふと話が下手になるのは詳細な内容を書くため、それを読むことで話が制約を受けてしまふことだ。詳細を書かずに項目を書くことで克服できる。


「作家X11」、大乗仏教(僧X系)その十八
「作家X13」、大乗仏教(僧X系)その二十

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