四百七十(その二)、「ポスト構造主義」は近年稀に見る駄本だ


平成25年
九月七日(土)「ポスト構造主義は存在しない」
図解雑学「ポスト構造主義」は近年稀に見る駄本である。小野功生氏と大城信哉氏が自分の主張をしたいなら、さういふ題名の本を執筆すればよいのである。ところがポスト構造主義を解説するふりをして自分たちの主張を押し付ける。その傲慢な姿勢には驚く。
まづポスト構造主義といふ思想は存在しない。1970年前後にフランスで誕生した思想の総称でアメリカの学会が名付けたが、フランスでは用いられなかつた。代表的な思想家はフーコー、デリダ、ドゥルーズ、リオタール、バルトだが誰も自分の思想をポスト構造主義とは呼ばなかつた。
西洋近代思想に反対する構造主義の主張をそらすためアメリカが捏造した。さう考へるのが自然である。

九月十二日(木)「第五章ポスト構造主義の思想(1)」
構造主義はサルトルを批判した。サルトルは人びとに積極的な政治参加を呼びかけてゐた。ストロースの批判はサルトルのマルクス主義的歴史理解、それと繋がつた政治観にのみ向けられたが、政治参加そのものへの批判と知識人は受け取つた。
もう一つ、ストロースがストロースの批判は西洋に対する未開社会からの批判と受け取られた。

アルチュセールは構造主義が批判したマルクス主義を構造主義で蘇らせようとした。ソ連型のマルクス主義は法則によつて進む歴史を考へ、個人は単なる部品だつた。西欧型のマルクス主義は、人間が主体的に進める歴史を考へ、サルトルはこのタイプのマルクス主義に近づいた。しかしこの考へは理性的で自由な主体といふ近代的人間観に基づくもので、マルクス主義の決定的な新しさをわざわざ捨てるものだつた。それに対してアルチュセールはどちらとも異なり、歴史の現実を複数の構造の複合体として理解した。

私はストロースの西洋に対する批判にも、アルチュセールの複数の複合体とすることにも賛成である。

九月十二日(木)その二「第六章ポスト構造主義の思想(2)、第七章ポスト構造主義の多様性」
ポスト構造主義といふ分類はフランスではなくアメリカのそれも文芸批評の場で用いられ始めた、で始まる第六章と、その次の第七章は本質的なことが何も書かれてゐない。つまりポスト構造主義といふ思想はないと考へるべきだ。
第四章の始まる前の第二部の解説でこの本は、アルチュセールを構造主義とポスト構造主義の中間に置き、「この段階で、すでにポスト構造主義を準備」と注釈をつけた。私はこれに反対である。アルチュセールは構造主義である。

九月十四日(土)「第八章男性と女性:フェミニズム」
西洋近代思想は地球を破壊に導く。アジア、アフリカなど非西洋地域では更に文化破壊を招く。だから構造主義は非西洋地域では共鳴できる点が多い。ところがこの本は第八章で一変する。西洋の文化破壊思想をポスト構造主義と呼び無批判にアジアに導入しようとする。西洋の思想を無批判に導入することだけでもアジア各地域の文化を破壊し生活を不安定にするといふのに西洋の文化破壊思想を取り入れたらどうなるか。
第八章ではまづ、男女の別は生物学的な違ひではなく社会秩序のために人為的に設けられた制度だといふ。

男女は対立するのではなく協力すべきで事実世の中では多くの男女が協力してゐる。離婚についてはさうならないよう社会が努力すべきだ。それでも離婚に至つた男女は離婚原因に応じて破綻不利益を分配すべきで、私は決して女が不利益でよいとは思はない。ところがこの本はさういふ配慮はまつたくせず男女の協力とは、 何かを隠す装置だといふ。社会秩序のためであることを認めながら破壊しようとする。この本が社会の秩序をどうでもよいと考へてゐることがこれで明らかになつた。
昔の労働は男も女も働いた。戦後は夫が会社に妻が家庭にゐるようになつた。それは化石燃料の消費と引き換へで起きたことだが、この本はそんなことにも気が付かない。化石燃料の消費がもはや地球を破壊する段階に至り、それは西洋文明が理由なのにこの本はポスト構造主義といふ名称で無理に西洋思想をアジアに押し付けようとする。更に「多様な性に向かって」と題して、男二人の絵の間にハートを描き「男が好き」、女二人の絵の間にハートを描き「女が好き」、女二人と男一人の絵の間にハートを描き「どっちも好き」などの結論として「本当は何でもありなのだ」と結論付ける。これがXX教大学(フェリス女学院)教授の云ふことか。
そもそも第七章までは西洋の哲学者とその主張を紹介してきたのに、第八章で突然名前が出て来なくなる。つまりこの本の著者の主張なのだらう。だつたら「ポスト構造主義」といふ題名ではなく自分の説を題名にして本を書けばよいではないか。実に邪悪な方法である。

九月十五日(日)「第九章西洋近代と国家」
人間は理性だけに頼ると不安定な世の中になる。だから文化が必要である。ところがこの本は人は文化によって支配されてしまう、と悪い意味で用いてゐる。それだけではない。西洋が世界の中心となったのは、他地域の側でもそれに協力する習慣が作り上げられたからです。そのような習慣は西洋だけでなく、世界中の文化の仕組みのなかで形成されていったものでした。
冗談ではない。西洋が世界の中心になつたのは戦前は軍事力、戦後は経済力によるものだ。それなのに西洋以外に責任を帰すといふトンデモ本である。殺人事件は加害者だけではなく被害者の側にもそれに協力する習慣が作り上げられたからです。トンデモ本に従ふとかうなる。

九月十五日(日)その二「第十章ポスト構造主義批判」
フーコーは理性そのものが暴力と考へ近代を批判した。デリダは理性的な思考に入ることで理性を自壊させようとした。その彼らをハーバマスが批判したのは両者の置かれた条件の違ひだといふ。
ドイツでは、20世紀に入ってから、近代に前近代が侵入するようなかたちでナチズムが到来しました。ドイツでは実際に、近代は未完のプロジェクトだったのです。一方フランスは、18世紀のフランス革命でいち早く近代化を達成していました。


この文章の問題点はナチズムの到来を近代に前近代の侵入としか捉へられないことだ。一つの主作用を達成すると幾つかの副作用を発生する。副作用は永久に解決されないこともあるし遅れて改良されることもある。産業革命が最初は工員の悲惨な生活を生みやがて改善されたことはその例である。ナチズムは近代達成が不十分だから発生したのではない。近代の副作用が未解決だから発生したのである。この本の著者の単純思考には呆れるが、その近代崇拝思考にも呆れる。近代が地球を滅亡させようとしてゐることになぜ気がつかないのか。(完)


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