六百四十九(丙)上座部仏教の信じる部分と信じない部分

平成二十七乙未
一月十日(土) 信じる部分と信じない部分
上座部仏教にも信じる部分と信じない部分がある。そんなことをいつてよいのかと言はれさうだが、神社や寺院に初詣に出掛ける人たちも神社や寺院に信じる部分と信じない部分がある。神仏に祈ることは信じても神主や住職のいふことをすべて信じてゐる訳ではない。それはミャンマー人やスリランカ人の上座部仏教への思ひも同じである。
私は本生譚(ほんしょうたん、ジャータカともいふ)は信じない。釈尊の前世の話で、これは釈尊が亡くなつた後に釈尊を慕ふあまり次々に物語として創作されたと見るべきだ。しかし上座部仏教では経蔵に収録されるから釈尊が説いた経として扱はれる。
スマナサーラ長老のブッダの実践心理学・アビダンマ講義シリーズ第一巻「物質の分析」を読んでこれは仏教とは無縁だと思つた。論蔵(アビダンマ)は釈尊の説いたものではないが三蔵の一つとして最高文献として扱はれてきた。だから仏教とは無縁だなんていつたら仏教徒失格である。それとは別に十年ほど前から次の考へも持つ。初期仏教が部派仏教になつたときに膨大な理論が生まれたがこの理論こそ堕落でありその対抗として大乗仏教が生まれたのではないかと。

一月十二日(月) 幾つもある瞑想法
上座部仏教の瞑想法にはいろいろある。これに大乗仏教の曹洞宗、臨済宗の座禅法が加はる。このうち自分の性格に合つたものを用いるべきだ。私はミャンマーのパオ式と日本の曹洞式の中間が合ふ。瞑想自体を目的とするのではなく仏教の一環として瞑想をすることも大切である。
私がミャンマーの経典学習会に参加する目的は二つある。一つは江戸時代の寺請け制度と明治維新以降の僧侶妻帯で駄目になつた日本の仏教を再興するため上座部仏教の刺激を大乗仏教に与え回復させるためである。大乗仏教の読経や阿弥陀仏、法華経、真言を信じるのは瞑想のための精神統一の方法だと気付けば大乗仏教と上座部仏教に矛盾はない。二つには東南アジアとスリランカで長期に亘り信奉されてきたその民衆の伝統を学ぶためである。

ミャンマーのパオ僧院で修行されパオ僧院日本支院長に任命された日本人比丘のマハーカルナ師の講演で、本格的なパオ瞑想はアビダンマを知つてゐなくてはいけないといふものがあつた。瞑想会は今でも毎週行はれるが、難しくて判らないので私は行かなくなつた。やはり私は瞑想そのものを目的としないからかも知れない。私はこれが伝統的な信徒の立場だと思ふが、釈尊在世時に信徒でも預流果、一来果などになつた人も少数ゐるのでそのような修行を希望者がすることはよいことである。

一月十二日(月)その二 スマナサーラ長老
スマナサーラ長老は日本語が堪能で著書も多数ある。将来は著書が日本の上座部仏教の経典のような扱ひをされるかも知れない。勿論発言内容に間違ひはないが、質問に答へたためその影響はあり得る。また日本といふアメリカから精神上独立してゐない国に長く住むことの影響があるかも知れない。
今回スマナサーラ師の著書に賛成反対を含めて述べさせて頂いた理由である。(完)


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